過去に書いたブログの一部




平成22年

 

外見を整える 12・21

 正装に威儀を正してとか、衣紋を正してとかいいます。

 

大切な人や初めての人に会うときは、身じまいを整えます。

粗相があってはならないという礼儀上の意味も勿論あるでしょうが、別の捉え方もできます。誠意の表し方は、まずそこから始まるのですから。 

心理学者アルバート・メラビアンが提唱したので「メラビアンの法則」といわれますが、人の言動のうち、他人に影響を及ぼす要因としては、話の内容などの「言語情報」が7%、口調や話す速度、声色などの「聴覚情報」が38%、見た目など「視覚情報」が55%を占めるのだといいます。

わざわざだらしない格好をしたり、不潔にみえるような支度をあえてしていている人がいますが、多分なにもいいことはありません。 

正装は清掃に通じます。見た目だけで判断されて運を逃がしていてはならないのです。

本来輝いているはずの本質を、自分で曇らせていては、生まれ出てきた本来の役目が果たせなくて残念なこと。

 

ぶらキョロ運動 12・20

周りの人たちとの関わりというのが無くなって、思いもかけない殺伐とした事件に巻き込まれることが多くなった。

社会が悪い、青磁が悪い、教育が悪いと、他人事のようにコメントして、本来の個人の責任というのが見過ごされるようになった。

 立ち返れば、幼児期から人のなんたるかを疎かにしてきた結果と言えなくもない。

 

ぶらきょろ運動というのがあるのだそうです。

手の空いた大人が、子供達に目を配り、声をかけて安全に資するのだとか。

他人の子だから、いけないことをしていても叱れないということは無い筈。

都会のように地域の繋がりが薄れたところでは難しいのかもしれませんが、みんなで見守り育てるということを考えると、お節介ではなく大切なことのように思えます。

http://chiikuryoku.net/blog/2922

 

最後っ屁 12・20

 案山子の字の由来は分かり申さぬが、カガシならわからぬでもありませぬ。

ケダモノが嫌がる臭いをつけたものをぶら下げて、嗅がしたらしいですから。

 でも、髪の毛を燃やすことは避けたようです。この臭いは蛇が寄ってくるといわれています。

 

犬饅頭(犬が喜んで集まるという、ミミズが原料のものらしい)や、猫が好きだという股足袋(痔が違うって?)ほか、匂いの使い方にもわが国は文化があるようです。

(余談ですが、船饅頭はちとアブナイのでございます。)

 

 なんてったって「香を聴く」っていうくらい繊細な神経を有したヤマト民族ですから、匂いには敏感なのでしょう。

そういえば、正倉院の御物、ランジャタイと呼ばれる香木を切り取ってしまったのが、信長さんとか。

 

紺屋のしらばかま 12・19

 白馬鹿馬ではありませぬ。白袴でおじゃりまする。

 当社は、ビルのメンテナンスをその業務としておりますが、お客様のおトイレの清掃はやっても自社のおトイレの清掃は、(お金にならないというせいばかりではありませんが)どうしても後回しになります。

 そこで私が毎日というわけにはいきませんが、お掃除をすることにしています。

 

しばらくの期間それを続けているうちに、庭に咲いていたからとか、歩いてくる途中の土手に咲いていたからとか言って、パートのオバチャンが花を摘んできて小さな空き瓶に飾ってくれるようになりました。

 

 そのように、触発されて動いてくれる人が増えていくことも嬉しいことではありますが、どういうわけかトイレ清掃をしているときにいろいろなアイデアが浮かんだり、気づくことが多かったりするので結構気に入ってしまって、「ここは私がお掃除するから誰も手を出さなくっていいよ。」なんてことにしてしまっています。

 

 本音を言えば、たまにゃ誰かがやってくれるといいなと思うこともあるけどね。

 厠のお掃除をすることだけで悟りをひらいた仏弟子が居たということでありますから、そのうちに私もその境地に届くかしらね。

 なに?そんなことになったら驚天動地だって?

 

 

国語力の低下は 12・18

 金沢のホテルでの夕食には、若いコンパニオンさんがやってきて、お酌をしてくれました。

AAの少し先に座っていたオジイサンが「AAさん、このこが聞くから、に人を食うってどういうことか教えてやってよ。」と声をかけてきました。

 このこと言うのは、健康そうに発育した21歳だというムスメ。

 

「本当にしらないの?」と聞くと、「本当に知らない。」という。

「じゃあ、帰ったらちゃんと辞書を引くか、インターネットで詳しく調べてね。で、簡単に言うと、人を食うっていうのは、人肉をナマで食うことなの。」

 そばで聞いていた仲居さんが転げまわって笑っていた。

その女の子が、口をとんがらせて「ほんとはセイジとかなんとかの話なんでしょ?」ときくから、「そうそう、リッシンベンにナマって書くセイジのこと。」って重ねて冗談にしたのだが、仲居さんはなかなか学があるらしく、ふるえながら笑っていました。

 

 例によって、コンパニオンさんは皆AAの回りに集まってしまいました。

めでたしめでたし。

 

 

墓石清掃を始めるにあたり 12・17

 先般、社業40年の中で積上げた技術に付随する石材に関するノウハウを活用して、墓地墓石にかかる仕事で社会のお役に立てるのではと、この部門を開設致しました。 今を去ること10年、平成12年の春のことでした。 

この仕事を形にしようと思い立った理由の一つは、高齢化が進んで日頃気になっていても、墓参は行くことも掃除も自身で行うには体力的に大変となって、「誰か代わりにお願いできるといいんだけれど。」との声が多いと聞いたことと、

 もう一つには、身体はまだまだ丈夫な中高年の人向きの新たな働きの場がつくれないだろうか、との二点からでした。

 

 手がけてみると、墓参の代行には墓石磨きがつきもので、こちらの要望の方がかえって多いという事実でした。

 大部分の汚れやシミは、本業のビルメンテナンスの延長線上のことでもあり、石を傷めることなく落とすことが当初から可能でしたが、石材の中から滲み出してくる錆を手早く落とすことには、苦戦を強いられました。

 

 努力の甲斐あって、これらもクリアすることができ、殆どの汚れは石を傷めず落とせるようになりました。

 仕事を終えて帰ってくる従事者が一様にニコニコして、「お客さんから手を合せて拝まれた。」と言って、お客様の喜んだ様子を報告してくれるのを聞くのは嬉しいかぎりです。

 

  これが何年か前までのことで、カバーできる範囲が関東近県に留まっていることについて特に疑問も持たずにいました。

 しかし、墓石クリーニングを希望する方は日本全国にいるわけです。

問合せがあっても出かけるだけでも費用が嵩むしするので、お断りせざるを得ないでいました。

でも、誰でもが墓石クリーニングをすることができるようなマニュアルにまとめて、そのノウハウを提供すれば、世のため人のためになるではないかということに気づいたのです。

ご先祖様への気がかりや、胸の思いをはらすことが、幸せに繋がると思っておられる方々が多いのだとも気づいたわけです。

 

"墓石クリーニングのページ"も、是非ご覧下さい。施行例が多数あります。

http://www.kng2321-cbs.com

 

 

シルバーの合掌連呼 12・17

 合従連衡ならぬ汁婆の(瑞々しいという意味ですから念のため)わが蝋燃、おっといけない老年合唱団は、後生を願って朝な夕なに灯明をあげ線香をくゆらすなどという殊勝な心がけは更にもたず、信仰にならイザ知らず深更に及ぶまで巷を徘徊して高歌放吟っていう有様だから、丈夫なことであります。

 

ちんこうもたかずへもひらず、よりいいか?(知る婆なんてシャレテるけど、爺はどうなんじゃ?)

 そんなわけで、きのうひんがしきょうはにしならぬ、今日は今日とて、西から東まわりというスケジュールです。

 歌うのは、偉爺(エレジー)じゃなくって、喜礼爺。喜んで礼を尽くすという意味です。

 だれですかそこで、切れ痔なんじゃないのかなんていってるのは。

 まあ、カラオケもほどほどが宜しいようです。

 

 

気づきというツキ 12・16
 心に不安や恐れ、悲しみや悩みが生じたり、実際に病気や事故などのトラブルが起ったとき、「これでよかったんだ。これで原因を消すことができるんだ。」と、宗教をやる人がよく言います。
 そう言っていながら、そういう本人がとらわれたままの姿を変えることができずにいるので、それを見ている人は、宗教というももを胡散臭く思ってしまう。
 「それでよかった。」なんて思うことはなかなかできませんが、プラス方向に受け取ることができるようになることが必要だといわれます。
 なぜなら、それらは成功やツキのための宝庫である潜在意識が、その人に気づきを与えるための試練として現しているのであるから、顕れれば必ず消すことができるのであるということに他ならず、有難うと感謝すればツキが巡ってくるというのです。

そうはいっても、凡人はなかなかそうはいきません。


 そう思えるようになるための入り口というのがどこにあるのかということなのだが、身の回りを綺麗にしていないと見つけられないのだと昔の人はいいます。
 ご先祖様が教えてくれているのだという人もいるが、実際にどうやって教わるのかと聞くと、
「感謝の気持ちを現そうと思ったときどうするのか。」と考えて見れば、誰だって良くわかっていることなのだと言われます。
 それは、社会生活のどんな場所にいても同じだということなのですが、なかなか難しい。

できることから一つずつでも、先ずやってみると早いらしい。

 

 

今日も元気だ 12・16

 洗面所にいたAAにまで届く「こんにちわ〜」という元気な声。

 新聞を取りに出たサイ(角はない)が、「かわいいわね〜。」と言ってにこにこしながら入ってきた。上の階の小学生が、ゴミだしのお手伝いですれ違ったときの挨拶だったんだとか。

 顔を背けて横目でちらちら見ながら行き違う輩の多いなかで、本来は普通のことなんだろうけれど、このように挨拶されるとヨイコだなあと無条件で思っちゃえる。

 

 

我が身に置き換えて考えてみれば 12・15

 人は、顔も洗うし風呂にも入って、身体を綺麗にします。
女性であればその上に、化粧をしたり身支度を整えたり飾ったりして周りの人に接します。
 汚れたままでいれば、人が寄り付かないばかりか避けて通られるようになり、運だって逃げてしまうでしょう。
 しかし、自分の上っ面だけ綺麗にすれば事足りるといえるかというと、それがそうはいきません。磨かねばならぬものがいっぱいあります。
 知っていても、或いは気づいていても、それを綺麗にすることをしないで、ただ運が悪いだのツイテいないだの言っているのではどうにもなりません。そんなことでは、望むものを得られないことは当然です。
 本当は、自分ではどこを磨かねばならないか、何をしなくてはならないか、ちゃんと分かっているのに知らない振りをしているということなんですから。


 部屋であったり、トイレであったり、心であったりでしょうが、ご先祖様の眠る墓石のことを考えたことはあるでしょうか?
 野ざらしで汚れるのにまかせていていいはずがないと思うのです。

 時間をかけて静かに墓石のクリーニングをしていると、ご先祖様がそっとどうすればいいのか気づかせてくれるのだと、自分でクリーニングをした人たちは皆が言います。すごく穏やかな気持ちになれるのだと・・・

 

 

泣き所に膏薬(こうやく) 12・15

二股のことではなくて、痛いところに貼るほうのですので、よろしゅうに。

 

先日会ったとき、友人がサンダル履きで歩いているから、「寒いのにどうしたの?」と尋ねたところ足の小指を指差すから、見ると、湿布薬を巻いていた。

「なに、またもや懲りずに骨折したの?」と聞くと、机の角に思い切りぶっつかっちゃったのだという。(ぶっつけたのかぶっつかったのかでは大分意味合いが違う。)

 

 そりゃさぞかし痛かったでしょう。と、同じ痛みを持つ身のAAは、イタク道場下(同情した)。

 弁慶でも泣いたという向こう脛も痛いけれど、小指も痛い。

 

 

今人(いまじん) 12・14

 暇人、食を摂りすぎ昼夜遊ぶ  まっ糊塗に結えあるなり  股苦しからずや

 

 先日の帰り道、乗車待ちの列の前方にピンヒールのブーツに茶髪のケバイねーチャンがこれまたケバイコートを羽織って立っていました。

 顔はそんなわけで見えませんでした。

 

 突然、列を乱して斜め前方へと走り寄りかがみこんだから、なにごとならんと思ったところ、手押しの乳母車(そんなの手押しにきまっとるって?小さく背もたれのあるやつのこと)の赤ちゃんが落としたハンカチを拾い上げてパタパタと埃を払い、小さな手に握らせました。

 いいとこあるじゃん。人は見かけによらないっていうけど・・・。

 

 そこへいくと、AAは見かけもいいもんネ。えっなに、鏡をみたことないのかって?

 卿も棒捻掻(忘年会)、目も痴婆尻手(血走って)くるわな。



きづくことは 12・14

悩みの大半は、まだ起ってもいないことを先回りしてくよくよするということが多いのだと言われます。

 普段からこころがけて、いざというときに備え用心しておくことは大切ですが、困難に当面してからでも真剣に努力すれば間に合うというのが殆どだとも言われます。

 神様は、人間が乗り越えられないような試練は、お与えにならないのだと。

 

 私が初めてお掃除をすることになったとき、掃き方も拭き方も下手で、そうかといって誰がやり方を教えてくれるでもなく、只夢中でわけもわからず時間ばかりが過ぎていきました。

しかもその割には結果が綺麗になっていたとはとてもいえなかったのです。

 

 段々慣れて、手際よく道具を使えるようになると、「ごみはなくなったけれど、床に汚れが残っている。」とか「隅々が綺麗になっていない。」とか「壁などの立体面の汚れが気になる。」とか、射し込んでくる光線に浮かんで見える埃が多いけれどなんとかならないものだろうか、とか次々に綺麗さの要求度合いが上がってくるのです。
 そして、やってもやってもすぐまた次には汚れてきて、いつ果てるともない繰り返しがあるのだという現実に気がつくのです。

 

 それを馬鹿らしいと思わず乗り越えていかねばならないのです。

 そんな中で無心にお掃除をやっていると、あるときなんの前触れもなくハッと気がつくことがあるのです。懸案事項の対処法であったり、悩んでいたことの解決方法であったり、人生の教訓であったりします。

 なんでもそうなのでしょうが、一心に努めることが大事です。

 これらの気づきが顕著に起るのが、昨日ちょっと触れたトイレの清掃をやっている時と、墓石のクリーニングをしているときなのです。

 

 

髪はなが〜い友達 12・13

 近所のコンビニに煙草を買いにいきました。

 20年以上もやめていたのに、1本吸ったら元の木阿弥。あっという間に1日に2箱吸うようになってしまいました。ストレス恐るべしです。

 

「長いのと短いのとどっちがいいですか?」と聞くから、「どっちでもいいよ。」と答えると、

「長いほうが同じ値段ならお得です。」と言って、長い方を渡してくれた。

「長いといえば、髪は、なが〜い友達っていうけれど、白髪がふえちゃってね。」と言うと、「男の人はいいじゃありませんか。女は染めるのにお金がかかるんです。」などと慰めてくれた。

「墨かマジックインクを塗ったんじゃ駄目かね。」と冗談を言ったら「駄目です。」と笑っていた。

このオバチャンとの会話は、息抜きになる。

 

 

弘法筆を選ばず 12・13

 と言われますが、どんな道具でも良いのかというとそんなことはなくて、道具はよいものを選ばねば、上達に影響があることは間違いありません。

 弘法大師さまくらいの名人達人となると、どのような筆でも使いこなせたということなのだと思います。

 

 中学校の担任教師が習字の時間にAAの字を見て、どうしても新しい筆を買えという。

確かに使い古されて穂先が跳ねてしまったような筆を使ってはいたが、なかなか新しいものを買ってくれとは母に切り出しにくい時代に育った。

 筆が変るとほどなく、見違えるほどに字が上達したように思う。

それにしては、未だに字がうまくないねって?

 

 道具といえば、侍の表道具の刀にしても、職人さんの扱う刃物にしてもそうです。

 息子のピアノは、人前で弾くようになった最初のころからずっと聴き続けてくれている私の友人が流石よく見ておられ、コンサート会場に設置されているピアノの差によって音楽が違ってくるといいます。

 小学生のころは、メロディーも和音も全て耳から入ったままで覚えてしまい、トルコ行進曲くらいまでは聴いただけで弾いていたように思います。

 その頃から、「ショパンは、良い楽器で練習しないと上達しないと言っている。」と、楽器へのこだわりをもっていました。

 

 今も、ステージにのせる曲は、曲解釈まで含め自分で書いた細かな指示まで全て暗譜です。

 ここでこの音、というように出したい音を連ね紡いでいくには、自分が思い描いた通りに反応する良いピアノと良い調律が必要だから、SウエイとかBドルファなど弾いた通りにしか音が出ない楽器で普段から練習しなくてはならないのだと彼は言います。

作曲家が何を望んだかを伝えるためにもそこは譲れないというから、昔に立ち返っての筆ではないが、楽器はこちらが頑張って提供するよりなかった。

 

 

後には醒めて解ったとぞ思ふ 12・12

 覚めやらぬ(鮫やらぬ)頭で考えているのだけれど、鮫と鱶(フカ)ってどう違うんだろうね。

鰭酒にして深酔いするのが鱶なんてーのはサブイ冗談だし・・・。

 これに加えて、因幡の白兎にでてくる

 “わははっは〜わははっは〜わははっははっはは〜 ばかのばかの わにざめや〜い・・・”なんていう歌になっている、鰐鮫とはこれまたどう違うんだろう。

 これだって、海に鰐が棲んでるわきゃないから鮫には違いないと思うんだけど。

 

 サメザメと泣くってのは、鮫々と泣くってことなのかね〜。

鮫が泣くなんていうのは聞いたことがないけど、鰐は泣くらしい。クロコダイル ティアって言葉があるくらいだから。

 鰐は、自分が捕らえた獲物をたべるとき、その獲物のことが可哀想だ可哀想だと言って泣くのだとか。で、鰐の空涙って言葉ができたらしい。

 鰐も嘘泣きするらしい。

 

 

江戸っ子だってね〜 12・12

 酒のみねぇ鮨食いね〜・・・ってのは森の石松。

 

 訛りというのは、なかなか抜けない。小学校の国語のテストで漢字の読みを書きなさい、という出題に「標本」のことを「しょうほん」と答えて○を貰ったんだという記事がありました。

 テスト問題を採点した先生のお里はどこだったのでしょう。

 

 茨城では、井戸のことを江戸って読むとか聞いたけどほんとかしら?

 

 昔の小話に、「頭痛」の読みを書けという(   )内に、ノーシンと書いたというのがありましたっけ。

 

 

さとりとは、何なのでしょう  12・11

ずっと前に、同じ内容で書いたことがあります。

     
 企業のトップや有名人、はてまた芸能人が、自ら進んでおトイレの清掃をやっているという記事をよく目にします。
 それも、トイレのお掃除をやるようになってから運が上がったという内容になっていることが多いようです。
 昔は、会社に就職するとまず一番最初にしなければならないのがお掃除でした。

「掃除もろくにできなくて、まともな仕事ができるわけがない。」と、言われたものです。

特にトイレは、舐めてもいいくらい綺麗にするように言われました。
 いまは、*お掃除のきわめつけは、墓石クリーニングだという人もいます。
 
 二千五百年ほど昔、お釈迦様の弟子にシュリハンドク(周梨槃特)という人がいました。

物覚えが悪くて、朝聞いたことを夕方には忘れているというどころか、自分の名前すら覚えられないというひどさで、背中に自分の名前を書いてもらって、人から名前を聞かれるとそれを見せるというほどでした。

人からいつも馬鹿にされる自分が情けなく、たまらなくなってお釈迦様に相談しました。

お釈迦様は「何も心配しなくていいよ。」と言って、1本の箒を彼に渡して「一所懸命、ただお掃除だけを続けなさい。」と教えたのだそうです。

 

シュリハンドクは、それから何年にもわたり来る日もくる日もただひたすらお掃除だけを繰り返しました。

ある日のこと、いつものようにお掃除をしていると、「随分綺麗になったね。」とお釈迦様が声をかけました。「でも、まだ綺麗になっていないところが残ってるよ。」と仰ったのだそうです。

「どこなのだろう?」と思いながら、更に掃除を数年続けたある日、はたと気がついたのだそうです。「そうか、汚れていたのは自分の心だったのか。」悟りの瞬間です。

 

たった一つのことでも真剣に突き詰めていけば、究極のところに気づくということなのかも知れません。

 

 

語彙 12・11

 美しい日本語は、言を待つまでもなく大切であるということに否やはありません。

 しかしながら、その前にもう少し語彙力をつけることも必要なのではないでしょうか。

 

最近の若い人たちの会話を聞いていると、すげ〜、おいし〜い、かわい〜い なんて変に引っ張った言葉や、きもい、うざい なんていう創作形容詞の飛び交いが殆どで、ほかの単語が聞こえてこない。もっと国語を勉強しましょうネ。

 なかにゃあモロ哲学っぽい議論をしているむきも少しはあるが、言葉を取り戻すのは今のうちなんじゃないだろうか。なんてったって、ものを考えるのには言葉の力がもとになくっちゃどうにもならないんだから・・・若爺心ながら。

 

 

好循環 12・10

 

 スポーツニュースなどでも、得点を与えないとか得点をとったなどと平気でいうが、得点させない・点を与えない、点をとった・得点したのどちらかでないと変だという感覚もなくなってしまったのだろうか。

 

 アクセントが変なのも多い。

 陰陽師と陰陽寺、区別してアナウンスできないのか! プロだろう!

 濡れ手で泡とはなんじゃ。粟じゃないのか!

 これからなおします。・・・「直します」なんだか「尚します」なんだか分からぬ。

 

 区切り或いは修飾関係

今日は雨降り候 天気には御座なく候 (今日は雨がふります。天気ではございません。)

今日は雨降り候天気には 御座なく候 (今日は雨が降るような天気ではございません。)

 

形容詞がどの語にかかっているのか理解して話さないことも多いから、こちらで判断しなくてはならないことも多々ある。

 

こんなのが、ソーリは字が読めないなんて言っていたのですぞ。キリがないからもうやめにするけど。

 

 

気の毒

 「それは、アナタにとって気の毒なことでありました。」

 これが何を意味することなのか解ったら、かなりの外国通。

 

 彼らは、自分が悪かったと思っても、まず絶対と言ってもいいほど「ごめんなさい。」とか「悪かった。」なんてことはいわない。

相当自分でもマズイなとおもうときでも、せいぜいが「それはアナタにとって気の毒なことでした。」と他人事みたいな言い方でおしまいになる。

 

 彼らは、悪かったと言うと、悪いと思うんなら賠償せよっていうふうにおっかぶせられるのが常だから、なんとか言い逃れるか無視するかの方法をとるしかないのかも知れない。

 

 日本だと、「ああ言って謝っているんだから、許してあげようよ。」ってことで、大抵は丸く治まる。仮に保障が必要な場合でも、ふっかけて理不尽な要求をされることには至らない。

 「和をもって尊しとなす。」が根底にある人間性の豊かさがここにある。

 

 電車の中で、5歳くらいの男の子がAAの足を踏んだにも拘わらず黙っているから、「ぼく、人の足を踏んじゃったらゴメンナサイでしょ?」と諭した。

 傍らにいた若い母親も子供の頭に手を乗せて頭を下げさせたのだが、謝るということを普段したことがないのか今にも泣き出しそうであった。

「子供なんだから・・」と、そういうときにわけのわからん理屈をいってAAに非難がましい意見をいうヤツがいるが、大間違いだってーの。今しか教えるときがないじゃないか。

 

 まずったときに「いや〜すいませんでした。」と謝ることができる人は、度量が大きく人格もすぐれていると見られるから、結果的に周りからの信頼も厚くいろんな協力も快く得られて、ますます成長できるんだってことを、ちゃんと教えてやれってんじゃ。

 それができないと、子にも親にも将来に気の毒なことを齎すんだから。

 

 

気をつけないと

 TVを見ていたら、口うるさいコメントをする某評論家が「百年風を待つ」なんてことを言っていたことがあった。

 ちょっと待ってくれ。

 それは「百年河清を待つ」っていうんじゃないのかね。(黄河の水は、待っていてもなかなか清らかにはならない。)

 

 で、チャンネルを変えたら今度はクイズ番組などでなかなか博識ぶりを披露してくれる人が「殺生与奪の権」なんてことを言っていました。

 多分、「生殺(せいさい)与奪の権」のことを言っているのだと思うけれど、パロって言っているようにはみえなかった。

 

 コメントをする立場の人は、なかなかムズイの〜。

 

 

鬼にあったら

 ヲニに会ったらかえれ。漢文で一番最初に教わった。

 

妖ヲ穿ち涼ヲ遮る。今日の車内も、たいそう暑苦しゅうございました。昼日中から妖しげな風体をしたのが沢山乗っておりました。

 アヤカシの術にて獲物を取り込まんとの下心があるのかないのか、いとオドロオドロした化粧が崩れそうに汗をかいて、ご苦労さまなこと。

 普通の化粧をしたら、さぞ魅力的だとおもわれるかおだちを、あたら夏の夜むきのヒュードロドロにしてたんじゃ、そばに寄って来る前に逃げるわな。

 昼間のユウレイ鬼よりこわい。どどっと迫れば人よける。

 

 心ある人や嗜みのある人は、カラーコーディネイトなどにも気を配っています。

 なんてったって、自分に合った色を使うことで、大統領選挙にも影響があってと言われるくらいなんですから。

 

 

鬼に鉄棒

 なんですと、金棒っていうんですと?

 

鬼門には、ご用心あってしかるべしと中国じゃなかった忠告もうしあげます。

 

 鬼門とは、丑寅の方向すなわち北東をそう呼ぶが、気学ではなく陰陽道からきているのだと思いますす。

そもそもは中国の北東部が匈奴に侵略されたとき、出入り口が北東に開いている家の被害が大きかったというあたりから来ているようです。

 南西を裏鬼門といいますが、こちらに水廻り台所などがあると、中国では偏西風の影響で火災があったり食べ物が傷んだりするということからきているとの説もあります。

 鬼の姿は、牛と虎から角があって虎の皮のパンツをはいているということからだと言われております。カナボウはどうしてもっているのか知りません。

 

 

鬼灯

 又は、「酸漿」と漢字では書きます。“ほおずき”のことでおじゃります。古くはカガチと読みました。

 日曜日に旅館をチェックアウトしたとき、お土産にどれでも好きな花束をくれるというのでサイが選んだのがホオズキのドライフラワーでした。

 「おお、アカカガチか。」というと、フロントの係が「なんのことですか?」と不思議そうな顔をした。日本人のくせして日本書紀を読んでおらんな?

 

 素戔嗚尊が八岐大蛇を退治する場面で、目は赤カガチの如くして・・・って書いてあるように、

赤いホオズキのような形の目をしたオロチだったということでおじゃる。

「ヤマカガシって知ってるでしょ?」と聞くと「知っている。」と言って大きく頷いた。

そりゃそうじゃ。山梨に住んでいて知らないっていったら、そりゃモグリじゃ。

この、マムシの200倍ともいわれる猛毒をもった蛇の名からも知れるように、カガシ又はカガチとは蛇にほかならぬのでおじゃる。

 巳年の衆と同じ学年とはいえ、ヘビは恐ろしゅうございます。午の守り本尊は、猿っちゅうことになってますもんね。

 そんなことからも、日光東照宮の3猿が彫られている神厩舎は、すなわち馬小屋でありまする。

 

尻の痔のおっと字の尻馬に乗って、馬の話にうまく嵌りました。

 

 

宜しくない

 電話に出ると、「AAさんでよろしかったでしょうか?」と、のっけに聞かれた。

 こちらは受話器をとったときに「AAでございます。」とその時点ですでに名乗っているのにもかかわらずである。

 

聞きなれない声だし、どうもセールスらしいので、「よろしくはないけど、どちらにお掛けになったんですか?」と尋ねると、自らを名乗りもしないでクドクドと無遠慮に質問してくる。

「で、手短にいってご用件は何ですか?」「〜〜〜〜〜」「そうですか、ご苦労様。その気はないので他所で頑張って頂戴ね。」

 受話器の向うで話を引き伸ばそうとしている声がしているが、もう相手をしてはいられない。

 

 AAのところに電話したのなら、「AAさんですか?」とか「AAさんでいらっしゃいましか?」

であって、「よろしかったでしょうか?」というのは何の許しを求めているんだかわからぬ。

 

 レジでも変な言葉遣いがされていることが多い。

「1000円からお預かりします。」とか「1000円からで宜しかったでしょうか?」「1000円からで大丈夫ですか。」など。

「1000円お預かりします。」か「1000円からで宜しいですか?」が日本語。

 

「れる」「られる」や尊敬語、謙譲語、丁寧語は、基本がわかればそんなに難しいことではないように思うのだけれど。

若いうちに教養としてきちんと身につけましょうネ。

 日本語は素晴らしい感性を育ててくれることばなんだから・・・

 

 

恐れ入る

 【若者の使う言葉を「乱れ」というのは、大人の傲慢ではないだろうか。変化を受け入れなければ、進化は起こりえない。それを根本的に否定し、言語を押さえつけることこそが、「乱れ」ではないだろうか。】

新聞の投書欄にあった高校生の投稿の抜粋。

 

 意見だから、真っ向から否定するつもりは毛頭ないが、なにをもって“進化”といっているのかがわからない。

 言葉の正しいつかいかたも、正しい意味もわかったうえで、自然淘汰的に生まれ変わるのであれば、それは進化といっても差し支えないと思うけれど、ごく限られた閉鎖社会のみでしか通じない符牒のような言葉や、正しく学んだらそんな使い方はしない即ち初歩的勉強をしなかったことにより違った使い方をしているものをこそ、われわれは「乱れ」と呼んでいる。

 

 現代語は古典と違うこともその論拠にあげていたが、古典は、時代をこえて立派に通用する文化であるし、それを乱れなどと呼ばないことに何故おもいをいたさないのだろうか。

 たしかに言葉は、時代とともにかわっていく。外来語のとりいれもそれを加速する。

されど言葉は、自分以外のそとの世界とつながるための手段であってみれば、身だしなみや礼節とおなじく他を慮った気持ちよいものであるにこしたことはないと思うのである。

 

 

恐竜

  気分がいいから過憤はやめようと思ったけれど、これはちょっとひどすぎた。

「押入れの“氷”のなかに詰めてある。」とのTVでの手紙を読むアナウンス。

 なにごとならんと思うじゃありませんか。

 まだドルが360円だった頃のこと、いまのようにメールなんてないから、エアメールでしょっちゅう手紙を出した。その恋人が今の奥さんだといい、思い出の品だから“行李”に詰めて押入れにしまってあるとの話の紹介。

「あなたは、若くて読めないかもしれないからと、“こうり”とフリガナをしました。」と書かれた投書を氷と読み捨てて憚らない無神経さ。ナッサケネーッ!!

 二人出てきてあんたらプロだろう。全国に放送してるんだぜ。どんなものか下調べくらいさえもしないでヤッツケ仕事じゃ、大切な気持ちが伝わるわきゃないだろうに。

 

 国語力の低下は、目を覆うばかりであるとの報道がございましたが、先日車で移動中にラジオを聴いていてばかばかしくもおもしかった話。

 

1. 子供の頃、模型をつくるときに“のりしろ”というのがあった。子供のつくるものだから、「糊をしろ!」と命令語で書いてあるのだと信じて、長じるまで疑わなかったのだという。

 あるひ子供の模型を作るのを手伝っているとき、カミサンにその話をしたところ一瞬絶句して「何言ってるのよ。縫い代とか糊しろの代は、なにかをする為の余裕の部分のことよ。」といわれ仰天したのだと。

 

2. 「恐竜は、さぞ痛かったでしょうね。」と妻が言うので、何事かと思って問うたところ、恐竜が絶滅したのは隕石が衝突したことが原因だという説のことだとわかった。

 そこで、隕石が衝突したことによる急激な気候変動が原因なのだと説明したのだけれど、「何頭かは隕石が当たって死んだじゃないの?」と頑として言い張ったのだという。

家でその話をしたところ、「わかるわかる。そういうのもいたんじゃないの。」ときたもんだ。恐るべし。

 

 

教えて

 おし〜えて おじいさん おし〜えて おじいさん おしえて〜アルプのもみのきよ

 

むかし、倅がまだザルツブルグのモーツァリテウム国立音楽大学に居た頃の友人で、よく行き来していたハプスブルグ一族の侯爵家の御曹司が、TVで放映される「アルプスの少女ハイジ」を、日本の動画番組だということをどうしても納得できず、オーストリアで製作されているものだと頑なに言い張ったのだとか。

 「言葉は、ドイツ語の吹き替えができるとしても、出てくる小物やちょっとしたシキタリなど、こんなことが日本でできるわけがない。」と言って譲らなかったらしい。

 仕方がないから、「番組が終了してのクレジットで確認してご覧よ。」ということになり、テロップで流れるスタッフやキャストを見たら、もう日本そのものだったというお話し。

 こういうものを作るときの微に入り細にわたるチェックにかけては、日本人が優れていることは疑いがありません。

 でも、このような完璧性というのは、知識や意欲や努力だけでは届かない部分があるようです。何故だかわからないけれど、どこかから不思議なエネルギー状態で流れ込んでくる助けがあるようなのです。

 

 この御曹司、流石貴族の出だけのことあって、食事のマナーがすごい。

 よく、倅のところにも訪ねてくるから、ザルツに行っていたとき彼の家にも泊めてもらったことも、バスでのピクニック旅行に一緒したこともある。

エーハーで一緒にコーヒーを飲んだときのこと、熱いコーヒーを音も立てず吸い込むように少量ずつ飲むから、こちらのガブ飲みとスピードが合わず、「時間を合わせないと。」と、後で倅に注意された。

なにせこの御曹司、皿に乗せた葡萄を、ナイフとフォークでガチャリとも音をさせることなく食べることができるのだと倅から聞かされた。

 

 

教えて下さい

 どこかで読んで、気になっている詩があります。

 この詩が、どなたのなんという詩なのか。とても心を打たれます。

全文読んでみたいと思うのですが、一部分しかわからないでいます。どなたかご存知の方がいらしたら教えて頂きたく存じます。

 

 

 むかしこどもがおりました

 いまはどこにもおりません

 ちちはひるねをしています

 はははちらしをみています

 (中略)

 いつかどこかでこどもらも

 ふりかえったりするかしら

 こんなしずかなひとときを

 ちちははのこでいたときを

 むかしこどもがおりました

 えがおをわすれられません

  ・

  ・

  ・

 

 

匡整不能(共生?)

 そうなのです。AAは、だれかれ見境無くではなくて、多少見所がありそうにおもえるとき、それが恐ろしげなる風体な相手であっても救いの手(注意する)を差し伸べるようにしているのでございます。

 前掲のチカンがらみの話しは、例え話ともいうべきかと思います。

 確かに(見たことはないけど)卑劣なる痴漢行為をする者が居て、その被害に遭うのは性善なる人であってみれば、救済されるべきは当然のことであり、加害者は厳しく罰せられるべきでありましょう。

 しかし、逆には誣告の事例も多々あるやに聞き及び、ゆえなく社会から抹殺されてしまう危険もあることを思えば、その法的バランスを如何にとるかということも再考されねばならぬかとも思うのです。

 いずれにしても、双方の破廉恥さを映し出す照魔鏡でもあったら、理不尽さから解放されるのかもしれません。(その前に、自ら省みて直くんばっていう教育か?)

 

 電車中で見たホントのはなし。

 ラッシュ時を過ぎて空席も目立つ車両後部の、座席を取り払った空間に、シコオとすこぶる顔色の悪いシコメが立っていました。(厚化粧ではありません。不健康度の問題)

 そのシコオは、後ろからそのシコメを抱きかかえ、公衆の面前で恥じることなく○チを揉んでいるのです。「てめ〜ら〜人間じゃねえ!」

 見るからに弱っちそうな連中ではありましたが、注意しませんでした。もうここまできちゃってるのは、なにしたって直らん。

 鉄は熱いうちにうてっていうけど、ジャージにサンダル履きを憚らぬ先生が、学校で何を教えたって、薫陶なんて夢のまた夢か。まあ、親が一番悪いんだろうけど・・・。

 せめて万物の霊長たる人間は、禽獣とは違うのだというくらいのことは自覚できるようにしてほしいものです。

 

 

君子危うきに

 君子は、危ないことをしない。という意味ではない。

 君子たる者は、危ないとわかっているところに好んでわざわざ近寄るようなことをしない、という意味である。

 刑場に曳かれて行く石田光成に、警護の武士が道端になっていた柿の実をとって差し出したところ、柿は身体を冷やすからいらないと断った話しは有名である。

 もうすぐ死ぬ身にしてこの覚悟。プロとしかいいようがない。

 

 野球のピッチャーは利き腕で重い物を決して持たないし、常に肩を冷やさない努力をしている。

 ピアニストは余り握手ということををしないし、かりに握手するとしても強く握り合うことはしない。

 人間楽器ともいうべき、ソプラノ歌手であり前にこのページに書いたこともあるエディタ・グルベローバは、夏になってクーラーが要る季節になると避暑地に出かけるのだとか。

 クーラーが喉によくないからというのであるが、それでこそあの余裕のあるピアニッシモの声が出せるのだと納得させられる。

 縁あって知り合いとなったドイツ在住のテノール歌手が、一昨年の北海道公演の折に風邪を引いてしまい、すぐ後の東京公演の時に本来の声がでなかったのがプロとして恥ずかしいといって再来日し、前年の来場者全員を無料招待してくれた。自己責任だという。

 仕事に差し障りがあるとなれば、どんなにやりたいことであってもそれを避ける。

 プロというのは、人に見えないところであっても身体を自己コントロールしたり、道具を整えたり、必要と思ったことを地道に鍛え上げたりしているのだと思う。

 

 

警怠電話

 ひところよりは良くなってきたかと思っていたが、マタゾロ迷惑な大声で傍らに人無きがごとく振舞う輩が増えてきたようです。

 聞こえてくる内容は、どう聞いたって急ぎの用件だからやむをえないと思えない話しが多いようです。

 また、メールならいいだろうってことなのか、混んだ車内で他人に寄りかかりながらピコピコやってるお婆化さんもいるから、これも弱ったもんです。

  ちったあ教養が滲み出すような話しをしてるってんなら、我慢のしようもあるのに・・・

おさとの便りも悶絶せんばかりの内容じゃね〜。

 もっと恐いのが、自転車に乗って片手運転でフラフラ車道を走りながらの電話。

 命知らずの無法者というのは、昔はゴロツキのことを指したようだが、今は一見普通の人に見える。

 

 くにうれう しゃないつうわのはじしらず はだはしわしわ のうはつるつる

 

注意すれば本人もわかっていて、すぐに「すいません。」とやめることはやめるんだけれど、言われなきゃいつまででも話し止まないっていう根性が卑しい。

 網棚に新聞を捨てていくのは、一見会社ではそこそこの立場にいる人が多いように見受けられるのも残念なことであります。

 自分がしていることは、どこかで自分に返ってくる。

 

 

減らず口

 オジイサンの会に行ってきました。私が最年少で、ふた回り以上若いから、お世話役みたいなものです。

この会は、叙勲されている方が多い。

 少し遅れて来たオジイサンが、先に来て席についていたオジイサンに声をかけました。

「あんた、髪の毛が真っ白になったねえ。」

「俺は、白く染めてるんだよ。」

「眉毛も染めてるのか?」(眉毛は、まだらに白い。)

「そうだよ。」と、強気である。

「だけど、頭のてっぺんは染まってないぜ。」(てっぺんは、禿げているのです。そりゃ、染まらないわな。)

 

しばらくしてから、「2ヶ月前に会った時は、黒い毛もあったぜ。」と、またまた話しを蒸し返すと、「前から白いよ。あんたは黒も白も分からないからね。」と応じたので、みんなで大笑いになりました。

 この会に出席する人は皆仲がよいから、会うとすぐ憎まれ口から始まります。この二人は、会の最長老で、80歳を超えています。

 

 

個人が言語を使うにおいて

私が再三にわたり何故言葉に拘るかを説明をせねば、一方的との謗りを免れません。

以下の通りです。

 

個人は、少なくとも言語をつかうにおいて決して他者から切り離しては考えられない。それを介する以上他者とのかかわりが予定されており、好まないと言ったところで社会性がついてまわることになる。しかもこれを文字にすることで、人を喜ばせることもあるが傷つけることも更にある。高度に発達した精神活動を、あやまたずに表現することは至難というより不可能に近い。

だからありったけでものを言うとき、可能なかぎり美しいことばで素直に表現することで、理解してもらうこともできたし、また逆には、性、善なるものと他を汲み取ることもできた。

 日本語の成り立ちのなかで、伝承形式として確立した音声としての日本語が既にあって、そこに

文字も備えた中国語がはいってきたと考えられる。取り入れざるを得なかった他文化は、その言語を理解することなしに、仏教であれ律令であれ触れることが適わなかった。

しかし神話や万葉に知ることのできる美しい日本語は現にあり、それを失わせることなく内容を読み解こうとすることは想像するだに苦難の連続であったとするに難くない。模索模索して、ついには訓を使うという二重の読み方を発明することで、双方の文化を統合するを得るに至ったのだと思う。しかも日本語を表す文字は、音のみならず『意味』までを兼ね備える。

そうしたあらゆる努力をしたに違いない先人を思う時、仇や疎かに言辞を弄してはならないと

思うのです。言葉は、己をわかってもらいたいがため発せられるとしたら、その土俵にあがるときに必要な普遍的ルールであるというのが私見です。

人間は、唯一学習を許された動物であり、よい事を積み上げ伝統と昇華させることができるのであれば、及ばぬまでも歴史をつなぐ役割をすこしなりと担わなくてはとも思うのです。

 

ご高承の通り、中国の周辺諸国に言葉遊びができるほどに文字を発達させたところがあるとは、私も寡聞にして知りません。

 わが国には、平安の昔から掛詞をはじめとするシャレた言葉の文化があります。そのこと自体は、私も好きな部類はいります。暴走族が書きなぐるおどろおどろしい誤変換は勘弁ねがうとして、羅列、思いつきのままでなくどこかにキラリと光る「娯変換」のちりばめであれば教養として受け止めもできます。

 自分でわかっていることなので正直にいいますが、気性はどちらかといえば激しいほうで、どうにかコントロールできるようになったのは、不惑を越えてからのようです。ですから抜けきれないクセがまだ残っていて言わずもがなのことを言っている恐れは十分にあります。

 書いたり言ったりするほどに自身できると思えないことには「つとめて」と、頭につけてあることにお気づきだったでしょうか。自戒・努力目標の意味合いです。それほどに一語一語に配慮して書いているつもりです。

 なんとなれば、よそのお宅にお邪魔しているときの礼儀だとおもうからです。

 

 

古道具屋

 「ちちんぷいぷい」というオマジナイで思い出したんだけど、子供の頃ガラクタの値段ってのをつける遊びがあった。

割れた鍋=2円(煮えん)・レンズの割れた望遠鏡=3円(見えん)・水で割った酒=4円(酔えん)・黴のはえた餅=9円(食えん)などなど・・・ほかにも値段がついた商品があったとおもうのだけれど、思い出せない。

 ちっちゃいシャレコウベが、頼朝のご幼少の砌のものだっていうのは落語。

 

 

旨い汁

 旨い汁は吸うで、毒は盛るが慣用となっていて、どちらも飲むとは余り言わない。

まあ、自分で飲むのは呷るっていうけどネ。

 官庁の館長が間諜で捕まると、その刑は浣腸。ウソです。

 つかまる前に、毒をあおって痔尻(自決)するからです。旨い汁を吸うのは命がけです。

 

 うまい汁といえば、マツタケのお吸い物。

 今年は不作と言われていたのに、実は豊作なんですと。なにがかというと松茸が。

昭和10年代には、年間6000トンもとれていたのに、最近は24トンしか採れないんだとか。

口に入らないとなると、香も味もわからない人が多くなる。

 即ち、旨い汁が解る人が少なくなるということ。甚だしくは、土臭いなどと言う。

 子孫のためにも赤松を大事にしなくてはなりませぬ。松茸は、赤松の根元にでるのですから。

 

 

弱冠

古代中国では男子の20歳を「弱」といい、その歳になると元服 して冠をかぶったことから、男子の20歳を「弱冠」と言うようになった。

 だから弱冠といえば二十歳のことであるはずが、最近は若いという形容に変わって使われているようです。

 

 それはそれで時代の移り変わりの変遷として受け入れるとしても、明らかに間違った使い方をされるのがTVなどで聞かされると、本当にアナウンサーの採用試験を通ってきたのかと疑問に思ってしまう。

「就職が無い。」

職が無い、就職先が無い、就職できない、というのが普通の用法。

「全身の体が痛い。」

全身が痛い。体全身が痛い。これも同様。

 

これらは、本当に放映されたものの一部ですが、国語はセンスを身につければ、変な言葉遣いは口調がおかしくなるから避けられる。

 

弱菅は、64?65?

 

 

食物連鎖

友人がこんな話をした。

風邪っぴきの孫をあずかって、夕方、テレビ(教育テレビ「にほんごであそぼ」)を一緒に見ていたら、こんな詩が、偶然にも、流れてきました。

 ”朝焼け小焼けだ大漁だ/オオバいわしの大漁だ/浜は祭りのようだけど/海の中では何万の/いわしの弔いするだろう”

 金子みずずの詩なんだそうですが、何んやようわからへんけど、強烈ですね。好き嫌いは別にして、頭にこびりついて、ようはなれまへん。この詩の力なんでしょうか。

 昨日の晩飯は素材が秋刀魚だったので(鰯ではなかったですけど)、この詩のせいでどうも妙な感じでした。という内容のものであった。

 

 この星に生まれた不幸?か、生き物は全て、他の生き物を食べることなくして命を永らえることはできない。クロコーディアル ティア(鰐の空涙)ではないが、可哀想だ可哀想だと言って餌を食べるある種の残忍さから逃れられないのも、やむをえない事実である。

 鯨や海豚が可哀想だという異見をもつのも良かろうが、それが人間の命にかかわるような過激な攻撃活動に至ることへの正当性というのをいずこに求めるのだろうか。

 趣味の為だけに狐狩りその他の狩猟を行い、殺戮を楽しむのは許容範囲に入るのだろうか?

 自分の側から耳障りのよいきれいごとを言うのもよいが、翻って自らの行いや考えに齟齬がないかということまで意識を及ぼすことも、人たるには必要なことに思える。

 先人は、必要以上に他の命を奪わないようにということで殺生を戒め、命というものを粗末にしないでわが身に穫り入れるときの挨拶として「いただきます。」と言うようにした。

 貴方の命を私の命として頂きます。

 

 「ブタがいた教室」というお話しがありましたが、向き合うに強烈なことからは目を背けがちになるのも、人が本来もっている優しさからなのかも知れません。

であるから、人間性を高め、精神性を高めなくてはならないのに、なかなかそれができませぬ。

修行の道は遠い。

 

 

生誕

 ショパンが今年生誕200年だというのをご存知の方は多いと思いますが、キューピーさんが生誕100年になるのだということを知っている人は少ないと思います。

 昔は、セルロイド製のものをよく目にしましたし、どこにでもありましたが、セルロイドが使用できなくなってからは、あまり出回っていないようです。

 

 私の持っているキューピーさん(写真)は、焼き物です。

 どのような経緯で私が持つようななったかの話をすると長くなりますが、家にある私のパソコンの横のテーブルに可愛く飾られています。

 私の家族は、一人ひとりが自分のキューピーさんを持っていて、大事にしています。

 

 

働かざるもの

10月24日の投稿、食物連鎖の続きです。

友人が現役時代、南米の牧場で牛肉をご馳走になったとき、言われたんだそうです。

「どうだ、うまいだろう。我々は食べる為に牛を育てている。それに引き換え、日本人は海でそだったものをただ捕ってきて食べるというのはケシカラン。」

 

働かざるもの食うべからず

 手塩にかけて飼育し、或いは栽培したものだから、食べる権利がある。

なるほど・・・

 そこにいるもの、あるものを食べるのにだって、採取や捕獲に汗を流さないで済むということはありませんが・・・

 

 前載した「ブタがいた教室」では、手塩にかけて飼育するうちに情が移ってしまい、とてものこと食べるには忍びないということになったけれど・・・という話だったと記憶します。

 

 グリム童話集かなんかにもありましたっけ。子供を捕え、太らせてから食べようとしたというお話しが・・・

 

 ものを言うからには、その人たちの根拠というものがあるのでした。

 その逆の行いをする人たちにも、主張というものがあるから、双方の折り合いをつけるのは難しいということですか。

 

理解するためには、まず聞くということからなのでしょうが、これがまた困難を極める。

聞く耳を持つというのは、簡単ではない。

 

 

リンドウ

夏の終わりから秋にかけて、山道の脇に咲く竜胆の花が美しい。

 

笹と竜胆(笹竜胆は源氏の紋所に図案化された)

 

竜胆の花が開いたところに出会うのは珍しい。

 

チロルの山に咲くエンツィアン。(日本名チャボリンドウ)

 

ザルツには、シュナップスという日本で言ったら焼酎のようなお酒があります。

飲みすぎると頭が変になることから、ろくでもない考えのことをシュナップス イデー(シュナップス アイデア)といいます。

シュナップスには、リンゴやナシなどの甘いめのもののほか、エンツィアンを使った少し苦いものがあります。

どこの国にも飲みすぎる人というのはいます。

 

 

オオオニバス

 植物園などに行くと、池にオオオニバスの大きな葉っぱが浮かんでいます。

 小さな子供であれば、その上に乗ることができるのだとか。

 

 手入れのためなのか、葉っぱを引き上げて、一部裏返し状態になっているものがありました。裏は棘だらけでした。

 見物人から声があがりました。

「うわー、コイツめっちゃ裏表があるやん!」

関西方面からのお客さんらしかったが、正直な感想であると、こちらも思わず笑ってしまいました。

昨日、久しぶりに区役所の出張所に印鑑証明を取りに参りました。

 窓口にいた女性は、AAが申請書を書いているうちからにこやかに立って待ちうけ、今後同様の手続きをすることがあるようであれば、自分でプリントアウトすることができるようになっており、手数料も100円少なくてすむし時間外にも対応しているから、今時間があればそうしたらいかがかと、どのように手続きするか懇切丁寧なる説明。

 「役所も随分親切になって、気持ちがいいね。」と言ったところ、カウンターの中にいた全員が嬉しそうに笑った。

 そのあと、発証機のところまでついてきて、親切に説明してくれました。お互いが気分良く仕事ができることって、ちょっとした気遣いでできるんですよね。日本の将来は明るい。

 

 

干し柿 12・9

 若い頃には、どちらかと言えば好んでは食べなかった干し柿を、年を重ねてくるに従い買ってきてまで食べるようになった妻が、今年は自分で作るのだと言って、どこからか渋柿を購入してきた。

 私は、子供のころに家の手伝いで嫌というほどこしらえたから、手ほどきをしようと思ったのだけれど、「ネットで調べた通りに全部自分でやりたいから。」と、皮むきから消毒まで熱心にやっていた。

 軒先に干すのだけは手伝ったが、東京の気候では白い粉がふくまでには至らないかもしれません。(60の手習い)

 

 

五穀豊穣 12・9

 倅がピアノのレクチャーコンサートに行った世田谷区のある小学校では、5年生がバケツで稲を育てているのだそうです。

 そろそろ刈り取って脱穀し、炊いて皆でたべるのだとか。

 

 先々週末、飯田の教育長から伺った話に、生徒が農業の実体験をすると学力が著しく伸びるので、この企画の予算がつくのを待ち望んでいる学校が多いのだとのこと。

 そういえば、AAの育った座光寺は農家ばっかりだと思っておりましたが、今の小学校の生徒中、農家出身の子は数えるほどしかいないと聞いて、隔世の感を否めませんでした。

 家業を手伝うなど、大人と一緒に仕事をすることで得られる智恵は、生き物になる。

 机の上だけの学問による知識のツメコミに命を吹き込むのは、別の行程が要るのかも知れません。

 知識だけでは、分別をつくらない。

 

 

クリスマスイルミネーション 12・8

 12月5日(日)の午後、思いたって足利フラワーパークに行ってきました。

 東京から車で2時間たらずの距離だから、4時頃には入園できるようにして出かけました。

4時半には、夜間の客との入れ替えがあるらしく、その頃になると車は渋滞があるようですから、少し前に着くようにするのがお奨めです。

 明るいうちに、アメジストセージやスミレ、バラなどの花を楽しみ、暗くなってからはイルミネーションを楽しむというのが宜しいかと思います。

 美しいものは、足を使ってみるのが良い。生け花も美しいが、自然のままは尚よい。

 

 

虎の皮狸の皮 12・8

 なんですと?それを言うなら捕らぬ狸の皮算用っていうんじゃないのかって?

 

 そうもいうけど、「兜の金の前飾り ひとつ残して・・・」っていうのを読んで考えちまったんでネ。

 虎は死んで皮のこし 人は死んで名を残す。と言います。

信玄公は、前飾りどころか立派な名前を後世に残しております。

 

 AAは、このまんまじゃ狸のように膨らんだ腹の皮くらいしか残らないしするから、このまんまじゃいくらなんでも“しょうない”。あと十年踏ん張ったらなんとかなるかしら?

 メタボリックシンドロームだかシードラゴンだか知らないけど、これがtiger horse(トラウマ)にならんように禿おっと励むことにします

 

 

呼子鳥(かっこう) 12・7

 閑古鳥を鳴かせているこも知れない読者に、せめてもの話題。

 鳥の呼び名というのは、いろいろ有ります。

 

 鼻皺(パクリ)がらっとかわって、シインのはなし。

 と言っても、酒やワイン(ワインは酒じゃないのか?なんて言わないの!日本酒やワインっていう意味なんだから。)の試飲のことではありません。

「なんでもいいから長患いしないで、コロっといくのがいい。」っていうのが大方の意見であった。

ところが、中にひとり「そんなんじゃいやだ。」というのがいた。

 どういうのがいいんだ?と尋ねると「舌苔(絶対)、拭く畳使がいい。」と言い張る。

 も〜う笑った笑った。(畳のお掃除のことではありません。腹の上のことです。為念)

 

 

甲羅を経ると 12・6

 亀を飼うより都市を買う。(カメの甲より年の功)

 ツルは羨年、亀は漫年。千年を生きずとも、流石に年配者はミウチに蓄えたものがおおきゅうございます。

 

「風の積むこと厚からざれば、すなわち其の大翼を負うに力なし」とぞ申しはべるなり。

なんじゃそれって?

 大鵬っていう体の大きさだけでも何千里という鳥がいるんだとか。(見たこたないけど。)

 そんなぐらい大きな鳥だから、飛ぶについては翼の下に大層厚い風をたくわえねばなりませんが、それをちっちゃな鳥や羽虫が大袈裟だと言ってわらうんだって。

 円弱(燕雀)いずくんぞ広告(鴻鵠)の志を知らんや。っていうようなところか?

 

 

簡単なこと 12・5

 前に書いたことがある東急の渋谷駅ホームのこと。

 降車ホームと乗車ホームが分かれているにも拘わらず、なに考えてんだか自分の都合だけで乗車ホーム側から降りて歩く身勝手客と、発射時間に間に合うように急ぐ乗車客が交差して混雑するのが常だったのだが、一時期降りる客も乗る客も一方向にだけ流れるようになってすっきりしたことがある。

 突然、客のマナーが良くなったというわけではありません。なぜでしょう?

 いたって簡単なことなのであります。

 乗っていた客が全部降車側ホームに降りるまで、乗車側のドアを開けないようにしただけのことなのです。

 それがいつの間にか前のように戻ってしまって、ことに階段部分では危険この上ない。

 客の自覚があればよいのだが、目先の損得をばかり考える人が多いから、他人のことなど考えないようです。

 いいわいいわで放っておけば、いつかは事故につながる。

ちょっとの工夫、っていうほどのことでもないことだけど、降車客が降りきらなければ、どの道乗車できないんだから、乗車口を開けるのを少し後にすればよいのにネ。

 

 

古い毛や 12・4

 夕立や カワズにとびこむ 百貨店・・・というのは落語。

 古池や カワズ飛び込む 水の音

 さて、カワズは何匹池に飛び込んだのでありましょうか。というのを真面目に議論する人たちがいるのだとか。う〜ん、一匹だとばかりおもってたけど・・・。

 

 「ことびき」というのはカエルのことなんですとか。知らなかった。

 言われて見ればなるほど、岩はカワズの形をしていて、蛙石と名づけられているものを諸方で見かけます。

山川草木、万物に神が宿るとし、その霊力を感じていたご先祖さまは、実はすごいのだと思う。

すべてのものに神を見て敬い、自らの中にもその神性があるのだと、無意識ではあっても感じているから、すべては一体のものととらえて他にもやさしくできるということかも知れません。

 

 八百万の神がましますことに気がつけば、もっと平和になるということか。

 

 

望みを簡単に叶える 12・3

ツキを身につけるキッカケ

望みを簡単に叶えている人

 それは誰でしょう?

 言うまでもなく、それは赤ちゃんです。

親(先祖)にとってみれば、文句なく可愛いからです。持てる力をフル稼働して、先回りしてでも面倒をみます。

 それはそうでしょう。経験上、赤ちゃんよりも圧倒的にこの世的な能力をもった親が、可愛いと思ったら何でもしてあげたくなるのは、理屈ではありません。

 大人だって、来世で修行を積んだ先祖に可愛がられれば同じこと。

 子供だったときのことを、長じると忘れてしまい、親や先祖を大事にしないから、この世の幸せに近づけないことが多いように思うのです。

 気づきというツキを身につけることが必要です。キッカケは、下記から。

 http://www.kng2321-cbs.com

 

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過去、何年にもわたって書いているので、以下は手元にあるファイルから最近のものを順不動で・・・

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いろはカルタ

 友人たちでつくっている老年合唱団という歌の会の休憩時間に、わが高尚なる(好娼ではありません)会の話題は、カルタにおよびました。

 月夜に釜を抜く(抜かれる)

 (なんでオカマっていうのかについては、女形から派生したのだというご高説も拝聴した。

  あわせて、そのカマは、掘るというのが正しい用法なんだそうです。)

 ぬすびとの昼ね

 というあたりになったとき、「脱いでから断られる」というのを出した人がありました。

そこで煩型のわが面々から、「そりゃ手順が違うだろう。」と、いろいろ注文がついた。

 

でも、想像してみると面白い。

 脱がれても断る

 脱がれてから逃げる

 脱がせてから脱ぐ

 脱がせてからやめる

シチュエーションがいろいろあって、かなり笑えます。

 

 

菓子丼背視徒(カツドンセット?)

 けふは、流石にカシ丼セシトなどという脂っこいものを食べる気分じゃなかったから、スープものにしたんだけど、スプーソがセシトされてなくて困った。

 ほんと、なさけねー。

(カツ丼セット・スープにスプーンのことです。)

 「ツ」と「シ」、「ン」と「ソ」が書き分けられないワケーノが多いんだってさ。

 

 きのふは、さる新聞社の記者がふらりとやってきて(忘れた頃にやってくる)話しを聞きたいといふから、例によって口から出まかせにオダをあげた。

 ワケーノの事件が起こるたびに、評論家のダイ先生が出てきてもっともらしくノーガキを述べるけど、ほんとにそう思ってるんだろうか?ってやつ。

 

 むかしゃ親が子供に言ったことってそんなに沢山なかったように思う。

「お天道様に恥ずかしくないようにしろ。」「ひとさまに迷惑かけるんじゃないぞ。」「みんなとなかよくしなさい。」くらいのものだった。

 これで、夜道にオバケは怖かったかもしれないが女の一人歩きは何の心配もなくできたし、家の戸締りなんかしないで開けっ放しで出かけたってモノが盗られるなんてことはなかった。

 

 どこで間違えちゃったんだろうネ、どこからなのか気づいてるひとは多いと思うけど・・・。

 

 

からすうり

 夏の盛り、抜いても切っても次々に伸びてきて蔓延るのが、ヘクソカズラとカラスウリ。

 よく、ツタを家の壁に這わせているのを見かけるが、総じてツタ類を放置するのは家相上好ましくないとされる。

 

 近所の雑木林にカラスウリが沢山ぶら下がっていました。秋が深まると、緑色だった実が赤く色を染め、日に映えて綺麗です。

 瓜と言えば、こんなのが有りましたっけ。

 瓜売りが 瓜売りにきて売り残し 売り売り帰る 瓜売りの声

 

 

キューピー

 昨日の続きです。

 良いことを楽しんでやるのが、キューピー流なんだそうです。

 

幼児番組で、ひらけポンキッキというのがあって、はとぽっぽ体操というのがありました。

キューピーちゃん キューピーちゃん バンザイ手を挙げ 胸を張れ

パッと見て パッと見て 後ろはどなた

しゅっしゅ しゅっしゅ しゅっしゅしゅ汲み出せポンプ

お池にジョウロ バケツにいっぱい

 

殿様がえるだ けろっけろけろっけろ

ぴょんとんで ぴょんととんで ご挨拶

 

片足ケンケン お手叩き 右足 左足 転ばぬように

 

元気に足踏み1234 お靴を鳴らして・・・

 

 

ギンコバウム

 日本では、銀杏、公孫樹、いてふ、等と書く。

 

金色(こんじき)の 小さき鳥のかたちして 銀杏散るなり 夕日の丘に

与謝野晶子のこの短歌は、中学校の国語の教科書に載っていました。

 

 倅のザルツ時代の友人で、例のハプスブルグ一族侯爵家の御曹司と散歩していたとき、彼が

「これはギンコバウムと言って、とても貴重な木なのだ。」と言ったので、「日本では、そこらじゅうにあって、さして珍しくもないけど。」と答えたら、大層悔しがったのだとか。

 前にも書いたけれど、オーストリアと日本の植生は、かなり似ています。

 

 下北沢にある菩提寺の境内では、夕日に映えて梢が見事に紅葉していましたが、根元には金色の鳥たちが散り敷いていました。

 

 

サンザシ

 信州飯田の大門原(元善光寺のある地域の、山裾に付けられた地名)の畑の午後。

 秋の陽射しを浴びて、赤く小さな実をせっせと小籠に摘み取っている人がいました。

 姫リンゴとはちょっと違うようなので尋ねてみると山査子(サンザシ)だとのこと。

漢方薬の原料で、乾燥して消化吸収のための薬となるらしい。

日本では、これだけ沢山栽培しているのは私くらいのものだといいながら一つ食べてみよと手渡してくれた。甘酸っぱいシャリシャリした実でありました。

 

 実家の庭にはサンシュユの木があって、春に黄金色の花が咲いている写真を前に掲載したことがあります。

 花が咲くということは、実が成るということでもあります。赤い実がなっておりました。

 これも漢方では補腎・強壮薬としてつかわれるらしい。あっちのほうにも効くらしい

 

 

すいじゃく

 漢字で書くと垂迹。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)なんていうことを社会科だか歴史かで習ったと思うけど、忘れてしまった人が多いでしょうから、辞書を引いて調べて下さいネ。

 

 ニュアンスは違うけど、化身みたいなもんです。

 牛頭・馬頭(ごず・めず)大王がでてくるとはおもわなかったけれど、熊野の誓詞を交わすっていうのは、信長さんの頃まではよく聞きます。どうして熊野にしかその誓詞というのがないのかってことについて、昔小耳に挟んだことを思い出しました。

 

 神様を介して固い約束事をしたのに、それを反故にしたら罰があたるのを恐れたなんてことではなくて、それを強制させる見えない組織があり、誓詞で交わした約束を破るとどこまでも追い詰めて制裁したから、信憑性を持たせることができたんだとか。

ほんとかどうか知りませんが、むかしゃあったかも・・・。

 

 

せいじ

セイジと言っても、政治のことでも青磁のことでも、ましてや性事のことでもありません。

昭和は遠くなりにけりなのでおじゃるよ。

 

 チェリーセイジの花が咲きました。マッチの頭2〜3個分の小さな花です。

 

 さて、近所のコンビニでペットボトルの水を買いました。

百円硬貨を出して「はい百万円。お釣りを2万円頂戴。」というと、綺麗なオネイサンが大笑いしながら2円返してくれました。

明日という字は明るい日とかくのです。

 

 

せんばやまには たぬきがおってさ

 長野県飯田市上郷の黒田から野底川沿いに山道をたどると、姫宮八王子神社があって、ここは岩見重太郎の狒々退治で知られているところだから、そのつながりの風越山も猿か狒々かと思ったら、違うんですね〜。

 

 かざこしやまには てんぐがおってさ

 飯田市座光寺のお祭りには、赤天狗・青(烏)天狗が出てくるから、きっと居たのかもね。

 

 狗は山犬のことかと思いますが、狗賓というと天狗のことで、鼻を伸ばしている様子すなわちテングになっていることの表現にもつかわれるというのを聞いたように思います。

 しかし順の子節というのは、初めて聞きました。順の子に、節がつながっていくということなのかしらね。石に口を漱ぐんじゃなくって、風に耳を洗うってか?

 洗耳という書家がいましたが、そういう意味で名乗ったのかも・・・。

 ところで、センジというと宣旨というのをマロは思い浮かべてしまうんだけれど、綸旨とどう違うのでおじゃろうかの〜?

 このごろ都にはやるもの 夜討ち 強盗 にせ綸旨・・・

 

サラセン文化?おっとサラリーマン川柳ってのもオモレーね。

「ご飯まだ?」

「もうお腹がすいたの?さっき食べたばっかりでしょう!」

「でも腹へったよ。」

「そんなの気のせいよ!」

            そんなこと言ったって、腹がへっちゃあ寝られません。

 

馬鹿やってないで、お昼ご飯を食べにいってこよ〜っと。

 

 

そうかな〜?

 新聞の投書欄に、72歳だという女性が投稿していました。いわく、「おばあちゃん」と呼ばれたのがケシカランというのである。

 72ならもう立派なおばあちゃんじゃないのかなあ。お祖母ちゃんと間違えるほどボケてるんなら、投書なんかできないだろうから・・・

 

 同様な主張に、身内でもない人からオバサンと呼ばれるのは我慢ならないというのが前にあった。オバには叔母や伯母しかないと思ってるのかもしれないが、小母っていうのだってある。

 

 おばあちゃんやおばさんっていう言葉は最近できたことばではないし、長い歴史のなかで尊敬や親しみをもってずっと使われ続けてきたのではなかったんだろうか。

 怪しからんという人たちが、その“おばあちゃん”とか“おばさん”という言葉について持っているイメージとか、その年配の人たちにどんな態度で接してきたのか一度聞いてみたいものだ。

 

 ゆえなく、なんとかかんとか言われて無くなってしまったり変えられてしまったりした言葉のなかには、もし言葉というものに意思や人格があったとしたら、「不本意だ。」と言ったに違いないものがかなりありそうです。

 

 イジメというのは、“苛め”または“虐め”ということであろうが、国会でだってイジメがいけないという主張をしているその本人たちが、失言をして謝っている人に対し寄ってたかって何回でも繰り返し責めているのを見せつけたら、子供達にとっては、自分が傷つかない大勢の側にいるときにはそうするもんだと刷り込まれているのと同じなんじゃなかろうか。

 謝ったら、寛容の精神でそれを許し、以後双方が仲良くするというのがア国の美徳であった筈。

 諸外国では、謝ったら最後「貴方は悪いと認めたんだから賠償せよ。」ということになるのが常らしいけどネ。

なんかヤだね。

 間違えても、空トボケたり凄んだりもヤだけど・・・

 論点がずれてきちゃったから、けふはもうおしまひ。

 

 

そうそう

 早々じゃなくって、思い出したときに言う“そうそう”。

 信州弁のことを書いたら、どちらかの方言で「かばねやみ」というのがあるがわかるか?と聞かれた。

 少し書いて一時保存したままで、忘れていたものです。そんなのわがらねって?

 

「かばねやみ」

 “かばね”は、多分シタイまたはそのホネのことであろうから、ヤムがなにかっていうことになる。

これは、信州弁でもいうところのズクをヤムのヤムと同じだと思われる。

 したがって、骨惜しみと同義語ということになり、怠け者というのが答えとして類推される。

 

 たったの3〜4行じゃしょうがないから、何か付け足してと思いながらそのままになっていました。

 

 

そう言ってくれるのは

今朝の出がけ。まだ「尽くずく惜しい尽くずく惜しい」と、ツクツクホウシが鳴いているのを聞きました。珍しい。

そう言ってくれるのは

 貴方だけです。いや〜力強いかぎりです。

 そうか、そういうふうに周りを引き込めばいいんだ。さすが知恵者です。

 勉強になりました。今度からそうします。どうも自分だけで力んじゃっても駄目です。

 

 いつの間にか涼しくなって、庭に1っぴきだけですが、塩カラトンボも飛んできました。まだ赤くはなっていませんでしたけど・・・

 

 

その後に

 石榴は、めでたく口に入り体のために役立ちました。ザクロは、身体にいいんですぜ。

なににいいかっていうのは、あの赤さと酸っぱさから想像してくだされ。

 

 子供の頃、花ざくろは庭にあったけれど実のなるのは本家にしかなくて、見るだに美味そうな“エミ”具合は、紅一点とは違う意味であこがれでした。

 王安石もあの赤い花には魅かれたのかもね。そういえば、大学の試験かなんかに「王安石について述べよ。」という問いがあって、答えて曰く「中国に産する有名な石なり。」としたつわものがいたらしい。ほんとじゃろか。

 

 “えんだ”ついでにアケビについて。

 あけびってのは、あの種の周りの甘いのを食べるのだけだと思っていたのだが、甘味噌を詰めてオーブンで焼くとコタエサレンほど皮が美味いって聞いたけどほんとじゃろか?

 ジャロに聞いてみてはどうじゃろ。

 

たまあせだ

 玉汗だではありません。頭だせ、の逆読み。

のつせだ りあせだ たまあせだ と子供のころ歌ったのでお馴染みのデンデンムシのお話し。

 今年は、庭に異常発生して、葉っぱものをよく舐めまわしてくれました。種を蒔いても芽を出すとすぐに這い回り根こそぎやられてしまうことが度々でしたが、駆除しないでそのまま放置しています。

 これは、どうやってのぼったのか、鉢植えのバジルの葉っぱを舐めている蝸牛。

そういえば、蝸牛角上に何事をか争う 石火光中にこの身をおく なんてのがありましたっけ。

 

 

どういうわけか

 具合が悪くなると、電話をしてくる人が多い。

 前にも3年ほど音信のなかった高校時代の友達から突然電話がかかってきた。

「元気か?」と聞くから「こちらは元気だけれど、貴方は?」と訪ねると「今入院しているんだ。」という。

 「棺おけに片足突っ込んだけれど、急場をなんとか脱したら無性にAAに会いたくなった。」とのこと。

 翌日仕事をやりくって早速見舞いに行くと、こんなに早く来てくれるとは思わなかったと殊のほか喜んでくれた。

 4期まで進行し転移もしていたので手術も不可能で、治るためには戦うしかないと医者に言われて痛みに耐えながら頑張ったという。

そうしているうちに痛みも遠のき、投薬も身体に合ったのか効いてきたらしく思えたら、お前の顔が浮かんだのだという。

 「あんた運がいいのかもしれないぜ。俺に会いたいと思ったってことは・・・。まだ何かやりたいことがあるんだろ?だったらホンキでそれをやりたいと思えば大丈夫だよ。

大体、助からない人は、自分でもう駄目だと決めちゃったからだと思うし、貴方みたいに本性が明るくないことが殆どだから、アンタがなんとかなると思えばなんとかなるよ。

口からでまかせに言ってるように思うかもしれないけれど・・・」といいながら、いくつかの見舞いをした実例を話すと、「俺も頑張ってみるよ。」と明るい顔になった。

 

 どういうわけか最大のピンチになると、突然電話してくる友人が多い。そのいずれもが、他の人には知らせないでくれという。脳内出血、脊椎骨折、心臓発作、癌、などなど。そしてまたどういうわけかAAが見舞いに行った人は、大半復帰してくる。

 根拠を示して励ますわけではないけれど、本人がなんとか治りたいと心底思えば治るんじゃないかと思えてならない。

 

 タバコを1本吸いたいからというから「じゃあ、早く退院して吸いなよ。」と言ったことで、タバコ吸いたさの一念で治っちゃった人が現にいます。

 

 人は、自分が思ったとおりのものになる。

 そう他人には告げて、思い方を変えることで良くなるのを目にするんだから、自分の仕事だって良くならなくっちゃいけないのでしょうが、自分のことは後回しになるらしい。

 このページを始めたきっかけだって、世のため人のためなんだけどネ。

 

 

もってのほか

 ナニゴトカに「もってのほか」と言って怒っているわけではありません。

もってのほか旨いことから?「もってのほか」と呼ばれるようになったという菊の花の漬物のこと。

 

 毎年この時季になると、嗜む。

 少しのことを信州弁でタシナイと言ったけれど、少しずつ食べるからまたいいのかも。

 今年は、紫色のモッテノホカ。

何年か前、友人がダダクサモナク(信州弁で沢山という意味)作ってくれたのを思い出します。そのときは黄色い花でした。なに菊の花が適しているのかわかりませんが、一輪一輪花を摘み取るところから始まって、もってのほか手間がかかるのは確かです。

 

 

下北沢の地蔵尊

 下北沢駅の西口を出て坂を少し下ったところにある小田急線の踏み切り近くに、お地蔵様が祀られています。

 家内の祖父が彫ったという石仏です。

 この踏み切りは事故が多く、多くの人がなくなったのだとか。

 事故が起こらないようにとの思いを込めて建てられたというのですが、建立以来この踏み切りでの事故はピタリとなくなったのだと、古くから地元に住んでいる方はいいます。

 下北沢を離れて20年近く、この場所を訪ねることはなかったのですが、リサイタルのためにプラハから一時帰国している倅と一緒に、家内と共に行ってまいりました。

 しばらく見ないうちにすっかり汚れてしまい、外柵もコケに覆われてしまっていました。

 社業として石材のクリーニングをしている身にとって、なんとか綺麗にしなくてはという思いにかられましたが、どこに許可を頂いたらよいのか調べなくてはわかりません。

 いかに先祖が作ったものとはいえ、勝手に手をつけるわけにはいきません。

 

 その後、徳川家にゆかりのある寺に埋葬されている先祖のお墓にもお参りしてきました。

 お墓は、お参りというより、ただ単に行くという感覚で時々は訪ねるのがよいようです。

心があらわれて、エネルギーに満たされたような気持ちになります。

 

 

過ぎにし昔に

 さば缶の真中に入っている骨、あれはちっちゃいときのごっつぉうでした。

さば缶の調理方?、

そんなふうにするのは知りませんでした。今度やってみます。

 でもね、オカアチャとはなるべく喧嘩しないほうがようございます。多分どこでもそうだと思いますが、勝負になりません。負けるに決まってます。カニしてな!って言っといたほうが無難です。(これ、生活のチエ)

 

 カニの美味い季節になりました。お陰様で尿酸値はなんとかセーフらしく、痛風の心配はないので平気で食べられますが、前に北海道旅行で毛蟹だタラバだと飽きずに食べて、翌日から杖にすがって1週間ヒーヒー言ってた人を知ってます。でも、くいてーよねー。

 

 古文のお勉強、結構あっそうそうっておもいだすネ。強意とか掛詞とか。

 そんなに古くなく、明治大正か昭和初めかの文章だと思うのですが、中学の国語の教科書にあって、みな間違えたのがありました。

「午前七時にもやあらむ。」“む”は推量の助動詞だから、午前七時に靄があるだろう。

 でも、これってブー。

 “や”は強意の助詞で、午前七時ころででもあろうか。ということだと教わった。

 

 

確信

 信念を持つことは、素晴らしいことだとされる。

 信じるということに理屈はいらないのですが、信ずることと思い込みとは全く違うものです。

 

 (欠く芯)芯を上げ下げする石油ストーブというので思い出した話。

 子供がまだ幼稚園に通っているころのこと。その友達が50メートルほど先に住んでいた。

ある冬の日、さる大学の教授をしていたその子の父親が、石油ストーブの調子がよくないというので、暇でもあったから見にいきました。

 部屋に入ると油煙で霞むほどもうもうとしているから、何事かと思ったところ、ストーブの芯を目一杯上まで上げて、赤橙色の炎で芯が燃やされていた。

 「もっと芯を下げて、青紫色の炎にしなくちゃ温かくもならないですよ。」というと、自信をもってキッパリと言われた。「火は、大きい方が温かい。」

 

 そのA

 これは、AAのが大学に通っていたときの講義中の話し。

 入学して間もない頃の、法学の時間だったかと思う。

何からそのはなしになったかは忘れたが、「鯨は、魚である。」というようなことを教授がのたまった。

 すかさず、ヤンチャな生徒が、「ハ〜イ、せんせいちがうとおもいま〜す。鯨は、哺乳類で〜す。」とチャチャをいれた。

 すかさずの返答が素晴らしい。「君は何をいうか!鯨は魚である。なんとなれば海にいる。」

 なんと説得力のあることば!

 

 

角を貯めて

 なに?そりゃ「角を矯めて牛を殺す」っていう諺通り、矯めるじゃないのか?って?

 大体が似たようなもので、「助長」ってのだって間違った使い方が多い。怪しからん!

 いや、お叱りはご尤もですが、違うお話しなのでおじゃりまする。

 

 ときどき美味い魚を食べさせてくれる船主さんが仰るのに、マグロを釣るときの疑似餌に牛の角、それも赤牛の角を使うと、食いつきがいいのだそうです。

 海に牛なんぞいないし、ましてやそれが餌になるなんてことをマグロだって思うはずがないから、ふしぎであります。

 

 ところが、その角が“モウ”なかなか手に入らない。ですから、貯めておかねばならないということになるわけです。

 だれですかそこで「海にはウミウシってのがいるぜ。」なんていってる人は。

 

 鮭は、その生まれた川を避けて通れないんですかねー。酒を避けてトオルちゃんしてる良い子がいるってのに・・・。

 

 

閣下そう言う

隔靴掻痒だか3階から目薬(2階から目薬っていうんじゃないのかって?)なんだか、目薬をさしても、パソコンの小さい文字ばっかり追っていると、「昼間」っから鳥目状態になる。

 

 この寒空に、蚊も1っ匹左目の前をとんでいるしね。

 そりゃ飛蚊症じゃないのかって?

 

 まあこんなくらいなら心配ないだろうけれど、字がちゃんと追えないと、堪え性がなくなる。

 メガネを作らないとならないかしら。

 

 

額秀

 額が禿たわけじゃなくて、学習の続き。

 

「お持ちしましょうか?」「平気平気、ぜんぜん大丈夫です。」

“お 〜する”は、謙譲語だから、主語がなくても私が言ったことば。

“平気平気”は、相手の言葉。

だけど、ぜんぜん大丈夫ってなんのこっちゃ。

こないだも、TVで脳の弱そうなタレントが、「ぜんぜん美味しいです。」なんて臆面も無くほざいていたっけ。

 しかしなんざますね。AAなんぞもどうしようかと迷うのが、コンサートのチラシをつくるときの電話番号の標示。

 「問合せ」とするのが正しいのだけど、一般的には「お問合せ」の方が多いからです。

 

 さて、鉈で鋸(ナタ・デ・ノコ)じゃなくってカサ・デ・チャンバラは、血の気が多かった学生時代に遊びでよくやった。

 しかし、人混みの中、傘を逆手に持って振って歩くのは危険この上なく、迷惑千万な振る舞いです。

AAなんぞもそれを見かけると、優しく?「危ないですよ。」と嗜めて差し上げます。

 お天気の良いときの日傘の骨も、周りの人の目の高さにくるのを意に介さず歩く無神経な婦女子が多くて、

「あなたは陽に焼けなくったって、大して代わり映えするわけじゃなかんべ〜」なんて思いつつ、コレはこちらが避けて歩くことにしています。

な〜んでか?(クイズです。)

 

 

漢字辞典

 雑誌の拾い読みで、けふはべんきょうをしました。

「戦」の字を“そよぐ”と訓へし先人よ 開戦前の風項(くび)に鋭し(矢部雅之)

 

これを作家の関川夏央氏が辞書をひきながら読み方の解説をしている文章を読んでです。

 

AAは、戦を“そよぐ”なんて読んだことはなかったし、項を“くび”なんて読んだこともなかった。

せいぜいが訓示からの類推から、訓を“おしえ”とは読めるくらいでした。

ではお立会い。「鋭し」はなんと読むか?

思えばいと“疾し”この年月・・・(仰げば尊しの歌詞)の“とし”と同じく、“鋭し”も、トシと読むのだそうです。

 これで歌の口調がよくなって、“ほっと”するわけです。

 

 

学習

 遅い目の昼飯を食いに行ったと思いねえ。

 「こちら牛飯になります。」と言って、目の前に丼が置かれました。

ちょっと待てよ。もうこれは牛飯そのものなんじゃないのか?

 そう言えば前に友人が、「こちら熱燗になります。」と言って徳利をだされたことがあるってやつがあったっけ。

これなら、まだ温燗だけど段々熱くなりますってことかもと思えなくもないけどさ。

 

 帰り道、いつも寄るコーヒーショップに入り注文すると、「店内でおめしあがりですか?」なんて大のおやじが聞いてきた。

 「こちらのお客様は、トレイもマドラーもなしでコーヒーにミルクです。」と、隣のレジのいつもの顔見知りでもないおねーさんが小声で教えていた。

「よく知ってるね〜。」と褒めたら「いつも同じなので覚えてます。」と返事があった。

 

 そうなんです。これが学習というものです。そのお店には、なにも言わなくてもそうしてくれるおねーさんが3人います。

 

 

感知外

 90は切れなかったというと、「まあそんなもんか」と知らない人は思ってくれるが、80を切れなかったなんていうと、もう頭から信じてはくれません。

 実のところは100もきれなかったし、KC超が喜ぶようなスコアでありました。

 この数年、ゴルフというものは年に数回しかしなくなったので、大きくタマを飛ばすのはまだしも、小技はさっぱりとなっています。

 ゴルフでは、多運動により腹を減らしてメシを食うということに決めています。それを職業としてメシを食うのは大変ですぜ。

 

 

竿頭(かんとう)

 竿の頭だからといって、あらぬことを想像いたしませぬように。いささか高尚なる境地なのでござりまする。

 百尺竿頭 如何進歩(百尺のかんとう いかが歩を進めん)・・・。

 低いところならまだしも、百尺もある高いところから、どうやって動きだそう。

これはなまじっかの修行じゃわからん。

 

 で、酢漬けのほうにさがっちゃうんだけど、丸焼きのほうがうまいって言う説もあるが、あたしゃ共食いになっちまうから、どちらもそればっかりはお許しくだされ。

 聞くとことによると、夫精(オットセイ)や兎裸(トラ)のを粉末にして淫(飲)すると、滅法効くと閨妍者が騙って(経験者が語って)いたといふが、ほ〜んとかね〜?

 

 こないだ花は半開酒はほろよいなんてことがかかれていましたが、やっぱり行くところまで行って、そこから更に歩を進めるっていうんじゃなくてはネ。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、な〜んてね。

 

 

基本中の基本

 今どのように大成功している人でも、社会に一歩踏み出したその修行時代の最初にやったことは、お掃除であったに違いありません。

 どんな仕事であっても、基本は整理整頓とお掃除であると、師匠や上司から厳しく指導されたものです。

 なぜそうするのかは教えてくれず、文句を言わず体で覚えろ!といわれました。

 教わった知識では身につかない、何か大きなものへの接点を感じることが、その後の成長に必要だったのだと思います。

 ですから、聞いてみると大声ではいいませんが、成功あいた方は人智を超えた偉大な力を信じてもいます。

 おざなりで嫌々やって、そのことに気づかないまま来てしまった人のいかに多いことか。

 

 偉大なるエネルギー体につながる入り口は、多分ですが瞑想と感謝であると思われます。

 そんな境地に辿り着くまで、お掃除をした人は滅多にいないと思いますが、真剣にお掃除をしているときに「ああ、これなんだ。」と閃いた人は多いようです。

 わかりさえすれば、お金を払って他人にやってもらっても差し支えないことになります。

 

 何事にも、やらないことに理由付けして、自分で行動することがないと、理解がそこに及ばないかもしれません。

 自分で墓石クリーニングをすることにして、無心になって何時間か真剣に取り組むと、それは瞑想状態でsomething great なものにつながる結果を得ることが多いようです。

 

 

機嫌がよいときには

 「あなた、内臓が悪いの?たいへんだね〜。」と親切に聞いてあげます。

訝しげに「えっなに?」なんて反応が大抵は返ってきます。「いやね、足を組む人って大抵内臓が悪いっていうし、段々重くなると苦しいんだってね〜。」

「内臓なんてどこも悪くないよ。」

「ああ、それはよかった。でも逆も真で、いつも組んでると悪影響がでるんだっていうから、将来がある体なんだから大事にしてね。」

 

 だ〜いたいやね〜。美人の西施(セイシ)が「あれ〜持病のシャクが。」なんてんで眉を顰めるから美しさがより増すんであって(顰に倣うという諺は、ココから出ている)、どっからどう見たって“顔が不自由な”人が足なんか組んだってサマにゃならないんだから、早く身の程を知る方が人類の為になる。

 これが、タンソクのシコオだってことだと尚更のこと。

 

 ぐずぐず言ってるんで、「いつか痛い目にあって自分で懲りるまでそうやってろっ!」と注意してやった若者が、電車を下りて後ろから着いてきたって話しは以前にしました。

 この若者は「親にも怒られたことがない。オジサン(おじいさんと言わなかったところがエライ)の話しを聞かせて下さい。」となかなか殊勝なことを言う。

で、近くの飲み屋で終電まで飲ませたっけ。

 それが本人にとってのの財産となるのだから、公の場におけるマナーとか嗜みっていうのを教えるのは、ふつう親であったり学校の先生であったりの筈なんだけど、違うことばっかり教えちゃうからなさけね〜。

まあ、箸の持ち方さえ教えてね〜てんだから、推して知るべし。

丼に人差し指をかけて持ち上げるなんていう、品のないこともするしね・・・

 

 

気になる

 熱湯にツケル。傘で目をツク。

浸ける(漬ける)は、付ける(着ける・就ける・点ける)とは音がちがう。

同じく突く(衝く・撞く)も、搗く(憑く・尽く)とは読み方がちがうんじゃ。

 ニュースはちゃんと読んでくれってんだ。

 

 で、話は違うが、東急東横線に乗り込んで、ガラガラに空いていた車輌の席に座り、書物を紐解いて読み始めて間もなくのこと、遠慮がちに若い女性が声をかけてきた。「あの〜、これは女性専用車輌なんですけど。」

 人品骨柄から言ってまさかAAが痴漢や変質者に見間違えられるはずはないながら、あせった。

 一番前の車輌がその専用車輌のはずであったのが、ちかごろ変わっていたらしい。

「ごめんね。」と言って急いで違う車輌に乗り換えると、そこはかなり混んでいて、その混んでいる原因のひとつが若いねーちゃんたちなんだから恐れ入る。空いている専用車輌に移ってくれたら、この混雑のさなか大層たすかるんだけど。

 

 

気になる言葉

 これが私の「お気に入り」・・・自分のことに「お」をつけるか?

 やばい・・・若い女性が使うのには馴染まない。言葉は体を表します。

 むかつく・・・波動が悪すぎる言葉。ほかの語彙を使えないのか!

 〜〜だし〜・・・空腹だし〜。で言葉が終わったら変。し、と言ったら並列語がこないとね。

 ぜんぜん大丈夫・・・ぜんぜんと言ったら次にくるのは否定語のはず。ぜんぜん駄目。

 大丈夫ですか?・・・買い物をしたら「袋は大丈夫ですか?」と聞かれた。袋は要りませんか、ということらしいのだが・・・

 生き様・・・これを、「いきざま」と平気で読むが、「いきよう」「しにざま」が対の言葉。

 

 

なんとかならんものか

 天下の公器であるTVのアナウンサーが、神前の前で結婚式を挙げただの、縁談ばなし(ご縁の話だから縁談)だのと平気で言う。

 いにしえの昔の武士の侍が、馬から落ちて落馬して・・・というような表現は、小学生でも厳に戒められたものだった。

 そうかと思えば、ホテルをチェックインするなんて朝の番組で言っていた。

 ホテル「に」チェックイン、ホテル「を」チェックアウトする、だろうに・・・

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