白          魔



 伊那の谷は、深い雪に閉ざされた。その上に座光寺富士に積もった雪が風に吹き飛ばされてなお降り注ぐ。
 目も開けられぬ吹雪の中を、白く大きな何者かがふわりと舞い降りたのであるが、夕暮れ時であったというばかりでなく、余りにあたりに溶け込んだような顕れ方ということもあって、誰の目にも触れることはなかった。
気づかれることのない表れは、危険を伴うことが多い。時代が変わるときというのは、どこかが緩む。小さくてもそれは徐々に進む。
 人は、芯に座るものに従っていれば、それが義であれ仁であれ徳であれ美であれ礼であれ筋は通っていくのであるが・・・
それがなかなかに難しいものであるらしい。

 雪闇を切り裂いて、白羽の矢文が飛んだ。
それは雪の積もった屋根ではなく、雪を避ける為に閉ざされた雨戸に深々と突き刺さったのであった。降りしきる雪の中とはいえ、痕も残さずやってのけたことに手練を感じさせてあまりあった。
 白羽の矢が立つことの意味は、この地にあっては石見重太郎の故事に直結する。

 強風に吹き払われたのか嘘のように晴れ渡った天空が表れると、そこは満天の星空であった。
 その昔、星は天空に開いた管であり、そこから異界の光が漏れ出ているのだと信じられていた。
 雪の上に星明りに照らされてぼうと浮かんだのは、全身を白い毛で覆われたように見える影であった。異界からの現出にも見えた。
影は即ち光。一体何を揺るがそうとするのだろうか。
 このところ、京への様々な扮装の旅人の往来が増えたかにみえる。

 河原一蔵は、代を継いで十二代となる。微禄な下級武士として目立たない勤めを果たしてはいるが、武芸をもってしたら家臣中随一の腕であるとの自負はある。ただ目立つことがないように控えねばならぬ役目を負っているから、それが自意識を苛む。誰からも軽んじられていることをもって隠しおおせているとの思いは強いが、時折すれ違う薄田隼人だけはどうも苦手で、平静を装いながらも背筋に緊張が走る。腕前を見破られているのではないかとの気がかりが残るのである。表舞台に立てるのであれば、肝胆相照らすつきあいができるようになるのにと思うのである。このままで持てる才能をあたら埋もれさせてしまうのかと、鬱勃たる想いに悶々とする日を徒に過ごしていた。
 「草」としての役目はとうに忘れ去られているのか、一向に及びはかからない。天狗党が移動しているのに何らの手立ても講じられていないのに、「つなぎ」の気配すらない。
単身で道中を襲い、闇中に首魁数人を斃す位のことなど雑作もないことと扼腕するのみであった。
 働く場所があるのに放置され続けることにより、さしもの忍耐の緒が切れた。魔に憑かれてしまったとしか言いようがない。
 白羽の矢が立ったのは、小雪の屋敷であった。懸想していたのである。小雪に何事か起これば隼人が係ってくるであろうことは容易に想像できたが、その行動はもう後先を考える正常さの埒外であった。
 知らせを聞くやすぐに、隼人は急ぎ小雪を飯田城に伴い堀公に預けた。後の動きをとりやすくするためであった。解決の目途がないわけではなかった。
 城を下がる道で、何食わぬ顔で登城してくる河原一蔵と出会った。
「そこもとか?」「矢張り見破られていましたか。」いっそ潔くはあった。
「場所を改めよう。」「相わかり申した。」
歩を進めた先は、狒狒退治伝説の由緒を持つ
姫宮神社であった。
「そこもと、我慢がしきれなくなったか?」
芯からその力量を惜しむような隼人の声音であった。「そこもとなら、憑りついた魔などいかようにも取り払えよう。このまま何処なりと行かれよ。働く場はいずれ出て参ろう。」
「去るにしても、ここでの試合を所望。」
おめおめとは負けぬ気概を示さずにはいられなかった。
「それよ。自らを誇示せずばおけぬところに
憑りつかれたのよ。世の為人のための力でなくてはならぬに・・・」
 抜き合わせて切り結び、すれ違いざま一蔵は絶対の自信をもって飛びくないを投げた。躱しもできず横っ腹にそれは突き立っている筈であった。
 向き直って対峙したとき一蔵は愕然としたのである。隼人はなんの手傷も負っていなかったのである。
 隼人は、弓の名手である福島に至近距離から矢を射て貰って、それを避ける修練を積んでいたのである。
 一蔵は、これを境に人前から忽然と姿を消した。後に隼人たちが魔との戦いに臨んだとき、強力な助太刀として現れることになる。




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