Twitterでのつぶやき過去ログ 1


企業のトップや有名人はてまた芸能人が、自ら進んでおトイレの清掃をやっているという記事をよく目にします。
それも、トイレのお掃除をやるようになってから運があがったという内容になっていることが多いようです。

昔は、会社に就職するとまず一番最初にしなければならないのがお掃除でした。「掃除もろくにできなくて、まともな仕事ができるわけがない。」
と、言われたものです。特にトイレは、舐めてもいいくらい綺麗にするように言われました。今はどうなのでしょう?


人は、顔も洗うし風呂にも入って、身体を綺麗にします。女性であればその上に、化粧をしたり身支度を整えたり飾ったりして周りの人に接します。
汚れたままでいれば、人が寄り付かないばかりか避けて通られるようになり、運だって逃げてしまうでしょう。綺麗にしましょう。


本当は、自分では何をしなくてはならないか、ちゃんと分かっているのに知らない振りをしているということが多い。できることは先延ばししないで
すぐやった方が気持ちが良い。そうすることが運をあげるらしい。


心に不安や恐れ、悲しみや悩みが生じたり、実際に病気や事故などのトラブルが起ったとき、「これでよかったんだ。これで原因を消すことができるんだ。」
と思うことができれば、捉われから解放されるというが、これがなかなか難しい。


心理学者アルバート・メラビアンが提唱したので「メラビアンの法則」といわれますが、
人の言動のうち、他人に影響を及ぼす要因としては、話の内容などの「言語情報」が
7%、口調や話す速度、声色などの「聴覚情報」が38%、
見た目など「視覚情報」が
55%を占めるのだといいます。

神社で巫女さんがお神楽を奉納するとき、手に持ってシャンシャンと鳴らす鈴の原型になったのが、オガタマの小枝なんだそうです。
アマノイワトの前で裸踊りをしたアメノウズメノミコトさまも、これを打ち振るって舞ったのだといいます。
オガタマの枝は1円玉のデザインです。


お金はなにをやるにも基本となり大切なのに、これを得ることにある種の後ろめたさをもっている人が多いようですが、
そんなことはありません。沢山持って、世のため人のため、幸せになるような使い方をすればよいのだと思います。
貯めこむだけだと滞って濁る。

古い語呂合わせに2升5合というのがあります。それは、分解すると升升半升だから、益々繁盛っていうことになるという他愛ないものなんですが・・・・

「世の中は、悪い人が居ないとおさまらない。」といわれます。本当の悪人ということではなくて、「私が悪うございました。」
と譲歩する人がいてこそ、「いやいや、私のほうも言いすぎました。」となって漸く折り合いがつくと言うのです。


先ず謝るというのは、日本の美徳かも知れませんが、外国人相手に通用するのかどうかは疑問です。
Sorryといったが最後、傘にかかって悪いと思うのなら賠償しろということになるのが常らしいから。
それでも、相手を慮る日本のやり方のほうが好きです。人らしいと思うのです。


駅の売店で雑誌を買いました。表紙に値段が書いてありましたので、「はい、350万円ね。」と5百円硬貨を差し出したところ、
「はい、こまかいお釣ね。」と言っておばちゃんが150円返してくれました。「釣りはいらん。」と言った方がいい?というと、
そのおばちゃん大笑いしていました。


「捨てる気持ちを捨てなさい!」という張り紙がされていたのだと言う。何のことか解らなかったので、「それ、何のこと?」と尋ねたところ、
ゴミ捨て場でもないのに不法にゴミが捨てられてしまう所があって、通る度に困ったものだと思っていたところ、上記の張り紙がされていたんだと。

「ちゃんと並んでクダシャイね。」幼児を二人連れた若いお母さんが、下の子に声をかけるのを聞いて、
『うん、マナーをきちんと教えてなかなか宜しい。』と思ったのも束の間、上の子が「これ、たべられるの?」と聞いたのに対し
「食べレルから売ってるんダヨ。」言葉遣いがちょっと残念。


公園で小さい子に「一緒に鯉に餌をあげよう!」と、持って来たビスケットを渡すと、毀して半分くらいは鯉に与えていたが、
残りは自分で食べてしまった。そもそも人間様の食べるものだから大丈夫だけど・・。
バイバイと手を振って帰っていく姿が可愛いかった。日本の将来は明るい。


福の神様は、幸せを一杯詰め込んだ袋を担いでいるので、他の神様たちのように身軽に動くことができない。
新しいお家ができると、そこへ早く着いた神様から順番に良いお部屋を陣取ってしまうため、福の神様が着いた頃には
もうトイレしか残っていないので、そこに住みつく。


仏像の形は経典で決められていて、そのフォーマットともいうべきものを「儀軌(ぎき)」というのだそうです。
この儀軌に則って仏像の大枠がつくられ、表情・印相・持ち物・衣などによって仏の個性は表現され、時代を超えて共通項をもつのだという。

音にも意味があって、たとえば鐘のネを表す音があって、「夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘が鳴る」
なんてのもそれで組み立てられていると、目の前で弾いて聞かされたことがあります。


生きザマ、という言い方はたいそう気になります。「生きヨウ・死にザマ」というのがもともとの日本語。
「ザマ」というのは、「ざまを見ろ!」という使い方に代表されるように、決して美しい表現ではないように思います。
せめて、「生き方」と言えば良いのにと思う。

現代風に言えばアポなしで行くのを「推参」といいます。
ご存知織田信長さんが、本能寺の欄干に片足をかけながら槍をしごき、「下郎推参なり!」と信長が敵兵を突き伏せるときのセリフ。

誰が見ていなくったって、「四知(天知る・地知る・我知る・貴方が知る)」ってこともあるんだから、自らを恥じないように
行いを律したほうが気持ちが安らけくあらむ。

ご先祖様がどういう謂れの方だったとか、前世がどうだったかとかに興味を持たれる方も沢山いらっしゃいます。
だとしたら、墓石は放置して墓碑銘も読めなくなってしまうより、長く綺麗に保つ方がよいと思うのです。
大切なものは、手入れして大事にするのは美徳の一つです。


「勘当」ってのは、ただ実家から追い出すというのではなく、人別帳からはずす(戸籍を抹消する)ってことだから、大変なことだったのです。

「どうしました?」って優しく先生が聞くから、顔にできたイボみたいなものを見せて「床屋かなんかで伝染ったらしいんですけど。」というと、
嬉しそうに「ああ、これネ、これは老化現象です。伝染りません。電気メスで取っちゃいましょう。」と、老化だとのお告げが下されました。

「ご来迎(ごらいごう)」は、ブロッケン現象といって山上の雲霧に自分の姿が投影されたものであると判るまで、仏が現れたと思われて
伏し拝む対象でした。「ご来光」は、朝日が昇り始めに差し込む美しい光であって、これも伏し拝みたくなる程に荘厳なものです。


何もかもが上手く行って「幸せだなー。」と思うときの心の状態は、喜びと感謝に満たされているのではないでしょうか。
だとしたら、逆もまた真なりで、心の中を強制的に喜びと感謝でいつも一杯にしておけば、成功や幸せは向こうからやってくる
ということになるのに違いない。


人間は、一般的に脳の3〜5パーセントしか使っていなくて、残りの95〜97パーセントは潜在能力として眠っているといわれます。
その潜在能力は、全て成功や幸せの為のものなのであると(誰もまだそんなことは言いませんが)、私は思っています。

眠っている能力を引き出すことができれば、「人は、この世に幸せになるために生まれてくるのだ。」という大命題を果たすことができる
のだと信じています。
では、どうすればよいのか?感謝でも喜びでもいいから、日々ある身の回りにあるそれらに満たされることが良いのだと思います。

滞っている大量の仕事をこなすときでもそうですが、簡単に済む細かな仕事から片付けていると、途中から一気に終わってしまう
という経験は誰もが持っているのではないでしょうか。加速の原則というのが働くからです。


人は太古の昔、まだ純粋さで神の領域に繋がっていた頃、よりその領域に近づくことで幸せになろうとして求めたものは、
真善美であったに相違ありません。音楽にしても絵画にしても自然科学にしても、美しいものを現出しようと努力したのだと思うのです。


ノロシといえばアパッチインディアンの専売というわけではなくて、信州には武田の狼煙台の跡だというのがたくさんあります。
なんで狼の煙がノロシなのかっていうと、むかし中国で狼の糞を混ぜたものを燃やして合図の煙をあげたところからきているのだとか。

オオカミが遠吠えしそうなくらいの冴え冴えとしたいい月夜というのは、最近は見られないが、夜空を眺める風流っていうのもよいものです。
月夜には、公園の池巡りをします。


「この紋所が目にはいらぬか〜!」っていうのは、ご存じ水戸の黄門様の葵のご紋。\n家紋というのはどの家にもあるから、
別段日本じゃ珍しくもないが、よく見ると大変なデザイン力だと気づきます。日本は素晴らしい。

蓮華というと、レンゲ草のことなんだかハスの花のことなんだか迷う。「カヨウ酒」は、蓮の葉っぱに酒を注ぎ、茎の導管だか篩管を通して
茎に口をつけて飲むのだといいます。ハスは、カニの中毒だとか酒の悪酔いの薬だというから、理に叶っているかも知れません。

や〜まのな〜かのくすりやさん はくぼくけずってこなぐすり うまのしょんべんみずぐすり ソレ はな〜くそまる〜め〜て まん〜きんたん 
それをなめるはあんぽんたん。
\n 今を去ること50数年。子供のころ歌った歌です。

「蓮」と「睡蓮」はどう違うのかっていうと、簡単にいえば蓮は水面から伸びた茎の上に花が咲き、睡蓮は水面に咲きます。

帰宅して家内に「今日はアメリカ大統領になっちゃって往生したよ。」と言うと、「なあにそれ?」と聞くから、
「いや、だからパンツのゴムが切れちゃってルーズベルト。」と答えたところ大笑いされた。
語り継ぐ程のことじゃないが、っていうより、アメリカ人が聞いたら怒るかな?


木偏に赤と書いてトマト、緑と書いて胡瓜、紫と書いて茄子と読むとしたら、黄と書いて何と読む?
 レモン?ブー。バナナ?ブー。
\n「ヨコ」と読みます。

木偏に「花」と書いてなんと読む?この間ちょっと大きめな日帰り温泉に行きました。
中には薬湯温泉というのがあり、「本日の薬湯は、椛。皮膚病に効果があります。」となっていました。
中にいた若者が、モモだモモだと喜んでましたが、モモは木偏に兆です。
\n答え:「カバ」

相手の悪口を言いまくっていながら、その相手からは大事にされたいというのは、土台無理な話し。
けっこうそういうことってありがちなことです。悪口をいうのは、裏返せば自分を見せたいということのあらわれだから、
下心というのは見透かされる。逆効果です。


たまらん。男が走ったから、玉runなんてことじゃなくて、蒸し暑くってってこと。
すみにくさがこうじると、どこかやすいところに、こしたくなる・・・(漱石)なんてしゃれたもんじゃなく、
車で走って涼みにでかけました。


雑草で一杯の庭に、花ニラだのムスカリだのアカハナユウゲショウだのが季節はずれに咲いて綺麗だから屈みこんで見ていたのだが、なんか変な臭いがする。
それがどこまで移動しても鼻についたように臭うから変だなと思ったら、100じゃなかった癪に障ることに、どうも「ネコババ」を踏んでしまったらしい。

おとろへし 蝿のひとつが力なく 障子に這いて・・・なんてのがあったが、秋の句だったっけネ。
物忘れをするのが常となって、衰えを気にする人が多いけれど、認知症とまでいかないものは気にしないで、
一つ忘れたら一つ新たに覚えるスペースが脳にできたのだと思えばいい。


PPKすなわちピンピンコロっといくのがいいんだなんて、講演した医学博士がお気楽にしゃべっていたけど、そりゃそうです。
でも、気難しそうな顔をした先生だったから、ご本人はそんなに心穏やかな日々を過ごしているようには見えなかった。

 いふはやすく おこのふはかたし


子や孫のオシャブリを早く取り上げないほうがいいらしいです。
それを早く取り上げてしまった子はポカン口になりやすく、そうなると鼻呼吸ができるようになりにくいのだという説があり、
口呼吸は免疫力が低下するというから要注意です。


子規・時鳥・杜鵑・勧農鳥・不如帰 昨日、付き合いで久しぶりにゴルフにいったところ、ホトトギスが鳴きながら頭上を山から山へと渡って
行きました。いろんな字が当てられているが、探せばもっと他の漢字が出てくるかも。


桑の実のことを「ツナミ」といいますが、紫色に熟れるまえの赤味の残った色を「ドドメイロ」というのだそうです。
浅学にしてドドメとは土留めかと思っていましたが、ドドメはトドメをさすのだとか。そんな複雑な色があるとは・・・


わが国における世界に類を見ない最高の徳目は「和」であり、それは儒教にいう仁・義・礼・智・忠・信・考・悌や、
西洋にいう愛を超えたものであって、日本人が有史以来積み上げてきた共通概念なくしてなりたたないものだと思うのです。


お爺さんの会でO爺さん「俺は、心臓に問題があるからバイアグラは駄目だけど、そんなのなくたって顔にかかるくらいだから大丈夫なの。」
すかさず
B爺さんが「あんたもずいぶん嘘が上手くなったね。」と返す。そんな心配はまったくないと思えるYさんがエイズの心配。敵わない。

山繭からとった絹糸で作る織物は、知る人ぞ知る絹織物の極上品。
カンボジアのクメール絹織物も、その山繭と同じくらい小さなマユから細い糸を取り出し、すべて手で紡いで織り上げるのだとか。
途絶えそうだった技術を、日本人である森本さんが復活させた。


オランダは品種改良をしたことでチューリップといえばオランダだということになっているが、そもそもの原産地はイランなのだとか。
だから暖かいところが栽培には適していて、イタリアも産地として良いのだと、ザルツの花屋さんが教えてくれた。
知らないことって多いものです。


アシュジュポ〜ンというのは、フランス語で蛸のこと(ウソです)。大体、足が十本なのは烏賊といいます。
オクトバーフェスティバルのオクトっていうのは、そもそもが蛸の足と同じで8のことだから、オクトーバーは8月のことでありました。
それが10月なんだと。


音楽でいうオクターブというのは、8音のことなのでおじゃりまする。
因みにセプテンバーのセプトだってそもそもはセブンの筈なのに9月だっていうからややこしい。
まあ、ビールを沢山飲んでしまえば、そんなのはどっちでもいいんだけど。


蛸、蛤、蟹、蛙、蛇が、どうして虫なんでしょうね。(虫がつく字は他にもあるけど・・・)

七十何歳かになるとおっしゃるお医者さんが29歳、夫人が27歳のとき結婚したんだと。
この年になって、時に喧嘩すると、「18の昔に還してください。」と言われるんだって。
いくら医者だからって、そりゃできませぬわな。草津の湯でも、そりゃ無理です。

TVで聞く気になる変な言葉。「挙式を挙げる」⇒挙式する(式を挙げるから挙式) 「縁談ばなし」⇒縁談(縁のはなしだから縁談なんです) 
「得点を取る」⇒得点する(点をとるから得点)その他、策士を作詞・陰陽師を陰陽寺・識者を指揮者と読むなどなど。


三つ集まるとなんでも賑やかになるみたいであります。
そういえば、喧喧囂囂(けんけんごうごう)のごうごうっていうのは、牛から来てるじゃありませんでしたっけ。
(牛がモウモウと鳴くさま。)私見ではございますが、一番は女性が三人集まったものではないかと思量いたします。


粗朶を燃やした炎で炙って茶碗を温めた中に蕎麦粉を入れ、自在鍵に吊るされ煤で真っ黒になった鉄瓶から湯を注ぎ、
素早くしかも力強くかきまわして固めたのが、本当の「蕎麦カキ」。
タマリ醤油をつけた(表面につくだけで中まで味が浸みない)だけで食べたものです。


狩人じゃなく「飼い犬の合唱」。
先ごろ信州の実家に立ち寄ったとき、有線放送から正午を知らせる音楽が流れてくるのに合わせ、庭からウォ〜〜ンと長くのばした
犬の泣き声がした。「犬が泣いてるの?」と聞くと、「そうでありますのな。犬が合唱するんでありますに。」と嫂が笑う。


ノギとは禾のことなんだけど、これがなんだか知っている人って案外少ない。
カホンカ植物の「カ」すなわち禾は、稲や麦の種子の頭についている肌に触れるとチクチクする、ちょんと出ているトゲみたいなのをさして
言います。皆で禾編の植物を食べるのが、「和」の始まりです。


親が子の最大の守護者であるように、先祖が子孫の最大の守護者であることは容易に推量されます。
神様に祈るのもよいことに違いありませんが、身近なご先祖様に願い事をすると良い。
http://www.kng2321-cbs.com

もともと人間は、動物であれ植物であれ他の命を取り入れることなくしては生きられない。
だから食事するときは「頂きます。(貴方様の命を私の中で生かさせていただきます。)」と挨拶して、食べ物を無駄なくつかわせてもらうことに意をそそぐ。

近頃トント目にしなくなったものに、鯨尺というのがあります。
着物を縫うのには必需と聞き及んでいますが、着物を着熟している若い女性は殆ど居なくなってしまいました。
ところで、目クジラってのは、それも立てるってのは、どっからきた表現なんでしょうね。


"コットン"水車も回ってる。」のコットンは、木綿のことだと思っていた時期がありました。
だって、糸繰り車はおばあさん〜〜の後に続いてたんだもんね。コットンが擬音語だと知ったのは、だいぶ後のことでした。


旅にでると、いろんなことを教わったり聞いたりして覚えます。 
「ねぶた」と「ねぷた」。\nむかし行ったったとき見せてもらったのですが、どちらも大掛かりなテント張りのなかで作成していました。
青森では「ねぶた」。弘前では「ねぷた」というんだそうです。


「沼」と「湖」。
水深が5メートル以上で、岸辺までしか植物が生えていないのを「湖」という。沼は、いたるところから植物が顔を出している状態のものをさすのだそうです。


「トンネル」と「隧道(ずいどう)」の違いはわかるか?と聞かれました。知りませんでしたネー。
両側から掘って、中でつなげるのをトンネルといい、片側から掘り進めていくのを隧道というのだと教えてくれました。勉強になりました。


寺院の四方に四天王というのが守護神として祀られています。持国天・増長天・広目天・多門天の四天王です。
東南西北(とんなんしゃぺー)地蔵買うた(じぞうこうた)と語呂で覚えます。

天で連想するのが、小枝をお赤飯などの添え物に使う「南天」。
難を転じるというので、庭木にすると縁起がよいとされます。花の時季に雨にあたると、赤い実の付きがよくないのだとか・・・


蜃気楼の蜃は、蛤のことなんだそうです。
蛤が怪しの気を吐いて中空に楼閣を築いて見せるのが蜃気楼の名の由来なんだとか。富山大学市瀬和義教授のお話の中にありました。

天球の外の、時間のない世界をイメージし創造した昔の人の話は、竜宮城にしてもかぐや姫にしても面白い。
星だって天球にあいた筒状の穴から漏れ出る光だということになっていたらしい。

久しぶりの会合で会った友人と話したばっかりなのですが、親孝行したり大事にしようと思わぬ子はいないが、なかなか形にしてそれをするのは難しい。
親ももう年をとってしまったが、「グレないで育っただけでも可としてもらうよりないかもね。」なんて二人で慰めあいながら別れた。


道を歩いていた童女と母親の会話。「ミイちゃん、ママと喧嘩したくないの。」「ママだってそうよ。」「じゃあゴメンナサイしたら許してあげる。」
「・・・ごめんなさい。」「ず〜っと仲良くしようね。」 幼い子の言い方がなんとも言えず可愛らしかった。


 広告の下の方によくある電話番号のそばに「問い合わせ」或いは「お問い合わせ」と書かれているが、どちらが正しいか。
では、 電話かかってきて当事者がいなかったような場合、「伝えます。」「お伝えします。」どちらが正しい?


駅の売店で買い物をしたら「暇つぶしに読んで下さい。」と冊子をくれた。暇じゃないけど開いてみたら、読めない漢字が10個でていました。
独逸・埃及・比律・濠太刺利・越南・土耳古・端典・愛斯蘭・伯刺西爾・墨西哥  さて、いくつ読めましたでしょうか。

武士は食わねど爪楊枝なのでござるよ。腹は減ってもひもじゅうない。
なに?それをいうなら爪楊枝じゃなくって高楊枝だって?それが最近は、爪楊枝が必要になってきていてね。歯にいろいろ詰まるのです。

TVのコマーシャルで火星人(見たことないけど)みたいなのが、異文化交流なんていってるのがありましたっけ。
で、その異文化なんだけど、昨日は和食党の説を曲げてスパゲティーなるものを昼食としていただきました。


スパゲッティーをフォークとスプーンで食べるのが上品だと思っている人が多そうだが、実のところはどうなのか?
貴族の後裔である方に伺ったところ、「ある地方では、そうした食し方をします。」との返事でありました。うまい言い方をするもんです。井中門とは言わないもんね。

世の有識者の中には、「出羽の守」と呼ばれる人達がいるのだと、ジャーナリストの清谷氏が書いていました。
「フランスでは、」とか「アメリカでは、」とか「デワ」を使って外国を引き合いに出し、日本がさもさも遅れているかのように主張するときに得意そうにいう。
 本当にそうなんだろうか。


ふわふわと、ただ酔っていた。それでも意味は通じるけれど、かわいい女の子が、記憶を消されて・・・という場面でのナレーションなのだから、
「ふわふわと、漂っていた。」ということでないと、意味がわからないシーンでした。


ささ(酒)を"たんと"きこしめすことを長がきにわたって繰り返すと、皮膚、とくに鼻の頭が赤くなります。これをサカヤケと申します。
勿論、そこだけ焼けるというわけではなくて、額と額の上や頬などが猿のようになりまする。肝硬変などといふ恐ろしき病の原因ともなりかねません。


毛の生えている頭を剃ると、月代(なんでこれをサカヤキって読むんだろうね?)は、青くなります。 
そのほかにサカムケというのがございまして、ムクと大抵のものは痛いのです。 「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と申します。


車に乗ってるときに聞いたラジオでの話し。概要はこうです。
フェラガモの靴を買いに行き、自分の足に合わせ選んだ。かなり高かったけど「これにします。」と決め包んで貰っていると、
「おつかいものですか?熨斗はどうしましょう?」と聞かれたんだってさ。自分のに決まってる。


中国の西域あるいは北のことを胡といった。野菜のキュウリは、胡の瓜だからキュウリと呼んだ。同じく、胡の弓だから胡弓。もっとも、これは楽器ですが。

男の顔は自分でつくるといわれますが、友人の記事が出ているというページをクリックしたところ、普段見たこともないようないい顔で写ってました。
よそゆきの顔。 いよっ!イイオトコ!(なんか出るかな〜?)


久しぶりに会った人に、「君も太ったね。」と言われて、傷ついたなどと怒ってる人の記事を読みました。
「は」じゃなくって「も」と言ってるのに、なんで怒るんだろね。「も」と言ってるからには同列なんだから、僕も太ったけれど君も太ったねって意味だと思うのだが。


よくつかわれる「いやされる」って言葉変じゃないかと思うのだが。
「癒す」っていうのは元の状態に戻るって意味じゃないのかね?もっと先の楽しい領域まで行くことを望んだらいいのに・・・

目先の損得で「人間としてどうよ」ということをすると、それがマズイ事だということは自分のDNAが知っているから、
自分の内なる神様である潜在意識に刻み込まれ、自分が一番困るときにツケを払うことになるらしい。
原因を作ったのは自分だから結果も自分に現れる。これを因果応報といいます。


旨い汁っていうのを吸えたら嬉しい。吸うものには良いものが多い。\nチチ、ミツ、ウマイシル、なかにゃ生き血なんてこわいのもあるけど・・・

飲むっていうのにはいろいろ問題含みなものがある。のむ・うつ・かうでいうところの般若湯、苦汁、青汁(う〜マズイッ)、煮え湯、などなど。
健康の為には必要なものもありますだって?そりゃそうでしょう。


お祖父ちゃんが、変なご飯の食べ方をしていた孫に食べ方のお作法を教えたら、「余計なことをしないで下さい。」と母親から文句を言われたんだと。
でも、ご飯のお茶碗は左で、お吸い物のお椀は右が普通の作法。どちらにあっても大した違いじゃないじゃないか、とは思いますが。

何の変哲もない草花であっっても見事な紋所に描きあげてしまうんだから日本のデザイン力は凄い。
前に、倅の友人でハプスブルグ家の後裔である旧侯爵家に招待されて泊まったとき、持ち物に貼ってあった当家の紋所である根笹の家紋にいたく興味を示した。
彼の地ではエンブレム。


ななえやえ 花は酒友 やまもりの 肴がなくて 飲むぞ金四季 \n 山吹に実がひとつもない(蓑ひとつだになきぞ)なんて、誰が言い広めたんでしょう。
実がなかったら、山ん中の山吹はどうやって増えたんだ?ということになるけど。


南町奉行に鳥居甲斐守耀蔵って人がいました。遠山の金さんと同じ頃の人です。\n他にも鳥居甲斐守という人がいたので、耀蔵の方の甲斐と呼んで分けていたのですが、
これが後に詰まって耀甲斐となり、人となりと相まって妖怪といわれるようになった。

あの星を とってくれろと なく子かな (江戸川柳) な〜んてのがありましたっけ。
小学生の頃までの郷里の空は、満天星躑躅(どうだんつつじ)のように、あたり一面ちりばめられた星で埋まってました。今は昔。


「なん」とっていったって、南都六宗のお話しではありません。
たたずむな いくな もどるな いすわるな ねるな おきるな しるもしらぬも
どうせいっちゅうんじゃ。(これの意味がわかったらエライ!・・・タクワン禅師)

「有難うございました。」「お世話になりました。」
なんて響きのよい言葉でしょう。何かをやってもらうのが当たり前になってしまっていて、そのことの裏にどんな思いやりと手間隙がかかっているかに配慮が
行き届かないのは悲しい。


美人は3日見れば飽きる。顔の不自由な人(ブスというのは差別用語なんだとか)は、3日見れば慣れる。な〜んていいますが、心の不自由な人は、一瞬で呆れられる?

東松山あたりを走っていたら、近くに「ヤキュウジンジャ」があります、とカーナビが鳴った。
野球ではなくて、表示は「箭弓」となっていました。根が正直だから、thank  you と感謝の気持ちが起こる神社だと信じてしまった。(箭はセンとも読むから)


烏彗沙摩明王(うずさまみょうおう)さまは、不浄なものを浄化してきれいにするといわれる仏教の神様です。トイレの臭穢(しゅうえ)を払うことを司るのだそうです。
トイレに入るとき黙って入ると明王様がお怒りになるので、咳払いをしたり、指を鳴らしてから入るようする。


トイレの蓋を開けっ放しにしておくのは、運が逃げるといわれよくありません。使用後は蓋を閉じましょう。トイレは、汚した人がその場で綺麗にしておきましょうネ。

天狗といえば、神変大菩薩=役の行者=役の小角を連想してしまうのは、高尾山で見るからかも知れません。天狗は、空を翔ぶばかりでなく予知能力もあったのだとか。

友人リンクの川柳のなかに「予知不能 サイ(角はないらしい)の怒りの 時期と規模」というのがありました。
皆様くれぐれも、サイ(妻)難に会わないようにお気をつけ下され。


「勘考する」っていうのは、信州では熟考するというより「工夫する」という位の意味で良く使いました。
他には「なかなか"ベンコウ"でおありるに。」っていうのもありました。
漢字で書くと「弁巧」または「弁口」。便硬ではありません。オシャマの意味でも使いました。

影というのはシャドウの意味で使われることが多いけれど、もともとは光のこと。でないと、月影・星影・灯影というのがなんのことかわからなくなります。

光の当たらないところは、陰といいます。陰と言えば、日本にはとても素晴らしい言葉があります。
「お陰さまで」 なんていい響きなのでしょう。\n世の中、自分の力だけで何でもが成り立っているのではないと思うのです。

陰陽・善悪・正負、あげればキリなくセットの言葉がでてくる。
人智を超えた偉大なる力や、誰に伝えたらいいのかわからないときの感謝を表すとき、「お陰さまで。」と自然に口にできたら、素晴らしい。

中華の西域を胡と呼び、胡の瓜だから胡瓜と言ったというのは前に触れました。今回は胡の桃と書くクルミ。
しかし胡桃は孫悟空が天界を荒らした時に食べた長寿の桃や、お婆さんが川へ洗濯に行ったとき流れてきたのを拾い上げた桃のように果肉を食べるのではない。
核を食べる。

四神相応の地というのがあります。神社仏閣や城などは、建てるときそういう場所を選んだ。
北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎というのだが、
「そんなことをいったって。」と何のことだか解らないと拒否反応をおこすが、災害が避けられる優れた地形というのは、運も呼びます。


何だかわからないけれど、人智を超えて働く偉大な力があることを、誰もが感じているに違いないのだが、
気づかないふりをしたり無視していたりするが、畏まって謙虚になることができるのも人間の美徳のひとつであると思うのです。


加持祈祷というと、眉につばをつけて考えた方がいいと言う人が殆どですが、本格的に修行を積み、意思の力で精神集中のできる域まで達した人は、
レンズで光を1点に集中すると物を燃やすことができる如く、超常的な能力を発揮することができるのだとか。


離れているのに音の振動が空間を伝わって共鳴することは、よく知られています。
この世のことは、物質も含め全てのものが振動数の違いによって現れているという人もいます。


「類は類を呼ぶ。」とか「類は友を呼ぶ。」とかいいますが、善は善を引き寄せ、悪はアクをひきよせる。
その人の心のありようによって同じものを引き寄せ、対立するものを撥ね返すらしい。

六芒星は別名ダビデの星ともいうけれど、このマークっていうのは伊勢市内の到るところでみられるのが不思議ですよね。
昴星と書いてボウセイとも読む。日本人はプレアデス星団(昴=スバル)から渡って来た星人の裔だなんていう人がいるらしいけど・・・


可怖催震(かぷさいしん) 怖いもの見たさというのがある。これは、辛いもの食いたさ。
昨日「珍しいものが出ていたから買ってきたわよ。」と、山ノ神さまが葉唐辛子の束を抱えて帰ってきた。これを煮締めたものは、私の大好物のひとつであります。

「化」を分解して、イヒと読む。Ich bin also bin ich\nイッヒッヒッヒ・・・この科目の成績はよろしくなかった。でも、人間は大きく化けねばなりません。

わが国では対になっている美しいことばがあった。 牛を追う・馬を引く・鳥を刺す・etc. そのほか、物を数える単位なども美しい。
そういう美しい言葉が失われるにつれて、2千数百年の歴史が培った日本の美徳も失せていきつつあるように思えてならない。


信州にいる頃、大晦日にお年とりといって食したのが、アジ科の海水魚の鰤でした。(但し、切り身でしか買えなかった。)
大きくなるにつれて名前が変わる出世魚だということであったが、何回名前の変わる順番を聞いても、いまだに覚えられていません。


お早苗饗(おさなぶり)・・・お田植えがおわると、田の神様を送るお祭りというかお祝いというか、神棚にイネの苗を供えてお参りしたものでした。
今の時季になると、もう田圃はどこも田植えされた苗が青々としげっています。


千振(せんぶり)・・・山道の土手などに生えていて、リンドウ科なのに白い小さな花をつける薬草がありました。
たしか胃腸に効いたのだと思いますが、舐めるとたいそう苦かった。煎じて千回振り出してもまだ苦いというのが、名前の由来とか。別名、医者倒し。


ことほどさように、「ぶり」というのは大切なのでございます。ブリッコに限らず、習い事や修行に入るときも「ふり」からはいることが多いのでは?
わが不利なお押せ、な〜んてね。なに、そりゃ我が振り直せの間違いじゃなのかって?まあ、そうも言うけど・・・。


「陰陽」 陰と日向のように捉えられがちですが、陰は原因の世界であり陽は結果の世界のこと。

生きるのに逞しい黄揚羽蝶。こんなのを餌にするとは知りませんでした。近くに餌となる柑橘類や山椒の葉が少なく、
代わりに食べていたフェンネルやイタリアンパセリの葉も、夏には枯れてくる。次に何を選んだのかというとアシタバの葉。世代を繋ぐということに真剣です。


カシドンセシトってなんのことかって?カツドンセットのことです。カシ丼セシトなどという脂っこいものを食べる気分じゃなかったから、スープものにしたんだけど、
スプーソがセシトされてなくて困った。手書きの看板の「ツ」と「シ」、「「ン」と「ソ」が書き分けられてなかった。


「セイコウ」 誰ですか?違う方の漢字をスグ思い浮かべた人は!
セイコウ又はセイコクと読むほう即ち、正鵠を射るというふうに使われる漢字を思い浮かべた人は、時節柄たいそう勘のよい人です。

野兎が好んで食べるから「ぴょんぴょん草」というのではなく、カンゾウの葉っぱがぴょんと立った兎の耳に似ているところからきているようです。
春先のまだ柔らかい葉を摘んで食べるが、お浸しやヌタにして美味しい山菜です。

庭先に「箒草」が植えられているのを見かけました。時季がくれば、「とんぶり」がたべられそうですね。丼じゃなくてトンブリ。
箒草の実は畑のキャビアとも呼ばれるトンブリ。食べる時の秋に葉が落ちた状態のものを箒として庭のお掃除などに使うために植えたものでした。


珍味といえば、雪を割って芽をだした蕗の薹を摘んで、これをたまり漬けにすると、嘘いつわりなく滅法うまい。小篭一杯獲れたので嬉しい。
珍は鎮。しずこころなく はらのへるらん


洋服での正装はテール(燕尾服)だが、こと日本ということになると「染め抜き日向紋、黒の五つ紋」ということになる。
紋付の着物は保管管理が難しいから、どうしてもテールか略装のタキシードかということになる。というより紋付は持っていないというのが正直なところです。


黥面文身(げいめんぶんしん)。イレズミのことです。\n魏志倭人伝に、倭人は顔や身体にイレズミをしていると書かれているとか。
発展途上前には、身体を傷つける例が多いように思います。マジナイの意味もあったらしいが、痛くなかったのかしら。

立派な彫り物をしている人に「彫り物って体が冷えるんだってね。」と聞いたところ、「そんな程度で済めばいいんですが、肝臓を傷めるらしいですよ。」との返事。
仲間も背中に彫り物を背負っていて、酒を飲まないにも拘わらず二人が肝硬変で若くしてなくなったという。


伊達の薄着という言葉があります。私も若い頃は、寒いのを我慢して薄着で過ごしたものでした。でも、これっていずれどこかに変調をきたすものです。
夏でも冷えは万病のもとなのです。大学時代の1シーズンで気づいたので、その後は努めて身体を冷やさないようにしています。


私の業界は、高齢者が多く働いているのでよくわかります。顔色がよくて元気な人は、寒そうな格好をしていません。そしてどういうわけかコブトリです。
おとぎ話しの瘤とりではなくて、小太りです。


夏とはいへ、オヘソを出したりお尻を出している人達は、十分お気をつけ下さい。冷えという自損行為とも言えることをしていたのだと後になって気づいても、
痛かったり苦しかったり、醜く脂肪がついてしまったりしてからでは遅いのですから。


「身体に栄養」「脳に知識」と言いますが、では心には何が必要かといいますと、「徳」というものなのでございます。
「心に徳」というので三要素が揃うわけでございます。
「徳」っていうのはどんなものなのか、何のことだかさっぱり分からないが、平たく言うと、人の気持ちを明るくすること。

ものを大切にして長く使うと、何とも言えない使い込まれた風格が出てきます。
傷んだところは修理し、汚れたところは綺麗にするという行き届いたていれが見て取れるものは貴い。

人間は、どうも神そのものか神の一部かというよりないように思えることがある。だから生きてることそのものに意味があるのだろうけれど、
周りにある物にも生命があるなしに拘わらず、神というか偉大なるエネルギーを秘めたものであるに違いないと思わざるを得ないこと多い。


強い陽射しの矢に縫いとめられて動くことも叶わず、地を黒々と染めていた影も、涼風が立つやサラサラと吹き払われでもしたように、
やがてそれは茜色の舌に綺麗に舐めとられて、ほどなく暮色があたりを包んだ。 夏の時季の夕暮れはなぜかけだるく、ものがなしい。


信じるというのは、理性や理屈ではない。まさかオカルトやなんかまでをやみくも信じる、などということは普通はあり得ない。
小さいときに野原や自然の中で遊んで、自衛本能に刻み込まれ身に付いた智恵は、それらを無意識のうちに判断する能力を培っているから、分るものです。

信じるということに根拠など必要ない。何故なら太古の昔からの歴史を経て、DNAに刻み込まれていることなのだから。
人は信じた通りのものになるということの一番解りやすい例は、「ああ、もう駄目だ」です。
すぐに自分が決めた通りになるから、これは口が裂けても言ってはならないことです。


親はなくても子は育つなんてことはありません。親は、子が可愛いと思わなくては育てられないのです。
順番だから仕方ないのですが、親になってみないとわからないことです。


樹静かならんと欲すれども風止まず 子養わんと欲すれども親待たず。韓詩外伝にあった、いわゆる「風樹の歎」
高校の漢文の先生が言うのに「孝行をしたいときには親はなし」ということだとのことでありました。唇寒しかな〜?


人は、環境の一部であるから、自然に溶け込んでみる機会をつくって見ることも大切なのだと感じます。 花を月を風を鳥を・・・
こんなにも美しいのだと、ただ感じるだけで心は豊かになる。


Tiger in the east wind\n東風(こち)虎ァ月なんざ出なくったって、月見はするんでぇと、虎は月に向かって嘯くのでありまする。
ま、そんなトラになるほど飲んじゃいませんけどね。


過ぎにし昔には、鯖缶の真中に入っている骨。あれはちっちゃいときのご馳走でした。
いまは、美味しいものの情報が巷に溢れていますが、目の前の食べ物は奥歯で噛み締めて食べれば何だって美味しいから、有難いことです。


かみさんとは、なるべく喧嘩にならないようにしたほうがようございます。
多分どこでもそうだと思いますが、勝負になりません。「カニしてな!」(信州弁で堪忍してな。という意味)って言っといたほうが無難です。これ、生活の智恵。


同乗した先輩がタクシーの中で、「ナナハンを過ぎてからは、自分で車を運転しないんだ。」という。
バイクのことかと思ったら、75歳のことでした。
「反応時間がどうしても鈍くなっているから、自分を守ることは他人を守ることでもあるし、迷惑をかけないようにしなくては。」という。


「能」というのは、世界でも一番というくらい体を酷使する舞だといいますが、私は「謡」も「能」もよくわかりません。
友人の写真家は、許されて舞台の袖から能の写真を撮るのですが、能というのは最初から最期までキメポーズの連続だから、どこを撮ってもよいらしい。

マンジュシャゲ。暑い暑いと言っている間に、もう少しすれば開花の時季を迎える。
この植物はまず花が咲くから、マンズサクというところから花の名前があるといいますが、あまりあてにはできません。彼岸の頃に咲くので、別名彼岸花。

長瀞の近く、高麗の巾着田は近年マンジュシャゲで有名になって、花の数も多いけれど人の数も多くなってしまいました。
前は静かだったんだけどね。でも赤、白と花の多さには圧倒されます。


宴会で指名された人がシャシャシャン・・・の1本締めをしましたが、「お手を拝借、イヨ〜 シャン」とだけやったところ、
江戸っ子の大先輩にそれはチョン締めっていうのであって1本締めというのは3・3・5と手を打つのを言い、それを3回繰り返すのを3本締だと言われていました。


中学校のときの先生が、授業中に、「しんしゅしなのの新蕎麦よりも、あたしゃあんたの傍がよい。」だとか、
「あたしゃあんたにホーレンソウ。」だとかいうのを教えてくれた。
\nさばけた先生でした。

「それは、アナタにとって気の毒なことでありました。」これが何を意味することなのか解ったら、かなりの外国通。
彼らは自分が悪いと思っても、まず滅多に「ごめんなさい」とは言わない。最高の謝り文句が、「あなたにとって気の毒」というわけの解らない言葉です。


金持ちのお爺さん達が集まってお酒を飲んでいた。一人が隣のお爺さんにいいました。
「貴方も成功してお金持ちになったんだから、そろそろ社会に貢献しなくてはね。」「まあ、それ程でもないけれどね。」
「社会に貢献するなんて大袈裟なものでなくても、ここのお勘定を払うとか」という意味。


潜在意識に繋がることができ、自在にコントロールできたら、成功は望みのままだという。誰もが持っている意識なのだけれど、これがなかなか難しい。

「胎児する」とTVでアナウンスされたから、何事かと思ったら「退治する」であった。「退治」と「胎児」は、イントネーションが違うのにネ。

狸の歌というのを、子供の頃に唄いました。○ん○ん○ぬきのきん○まはかぜもないのにぶらぶら(タを抜くから、タ抜き)

低体温は、太るばかりでなく病気に結びつくのだとか。ガン細胞は、35度Cで活性化するが39度Cで死滅するのだと聞きました。

黴(かび)という字は、音読みすると「ばい」。だから、カビを防ぐのは防黴(ぼうばい)と読むほうがよい。「ぼうかび」と読むのは、重箱読みということになります。

東京の練馬区にも、丸々太った狸が棲んでいます。ときどき街路灯に照らされて歩いているのを見かけます。
どこに棲んで何を食べているのでしょう?昨晩も夜遅くに見ました。


気と言うならば、景気も気の世界のことに影響を受ける。
実態というものであれば、それ以上でもそれ以下でもないことが明らかになる時がくるが、疑いというものと同じく、
それは際限も無く広がるものであろうから、どこかで気持ちを強くしないとならない。


人は、ある意味で何か頼りになるものがないと流されがちになるものではあるが、ご先祖様に守られていると信じることができれば、
それは大きな力となるでしょう。


ときどき美味い魚を食べさせてくれる船主さんが仰るのに、マグロを釣るときの疑似餌に牛の角、それも赤牛の角を使うと、
食いつきがいいのだそうです。海に牛はいないと思うのですが意外です。


幸せな人というのは、顔の艶がよく、自信に満ちて明るく輝いています。
目鼻立ちは如何とも成し難いにしても、この艶というのはかなり大事なものであるらしく、
これが運を左右するということであるから気を配らなくてはなりません。


顔色がくすんでいて運の良い人はいないらしいから、わざわざ変な化粧をして顔色を曇らせるなどというのはもってのほかのことなのであります。
そんなことから、鏡をピカピカに磨いておくことも重要になるわけです。神様は、光るものが好きだそうです。

この世で経験する様々な苦しみは、因果の法則によるものだというが、現れればそれで必ず消えるのだということですから、
どんなにつらくても「これで消すことができまして有難うございます。」ということで終りにして、
いつまでも捉われ続けないようにするのが良いそうです。


「金木犀の花が咲いたら茸の美味しい季節だから、それを目安に食べに来て下さい。」という店がある。
まだ時季が早いし、まさかこれから其処まで出かけるわけにもいかないが、3歩くらいは歩いたほうが体の為にいいだろうということで、
石神井公園まで散歩に出かけてみました。


多くの人が、苦労の後に幸せがやってくるんだから、苦労は買ってでもやれとよくいいます。本当にそうなんでしょうか?
苦労をすれば幸せになるというのは、どうも違うんじゃないかと最近思うようになりました。

頑張っているご本人は、自分の幸せに向かって喜んで励んでいるのだと・・・
ですから意識を向けている方向というのは幸せであって、決して苦労を目指してはいない筈です。

普通の化粧をしたら、さぞ魅力的だと思われる貌だちを、あたら夏の夜むきのヒュードロドロにしてたんじゃ、そばに来る前に逃げるわな。
昼間のユウレイ鬼よりこわい。どどっと迫れば人よける。

「おやじさま、ピアノはどこで弾いていると思う?」とピアニストの息子に聞かれたので「そりゃぁ指でだろう?」と答えたら、
「それは指を使って伝えているには違いないけれど・・・。」といって説明してくれたことがあったけれど、さっぱり理解できなかった。

熱湯にツケル。傘で目をツク。
浸ける(漬ける)は、付ける(着ける・就ける・点ける)とは音が違うでしょうよ。
同じく突く(衝く・撞く)も、搗く(憑く・尽く)とは読み方がちがうのだから、アナウンサーは気を付けてネ。

柿食う毒?
柿は、体を冷やすっていうから、気をつけなくてはいけませんなんてこと言われたって、柿はうもうござんすぜ。
なに?掻き口説くのことだって?そりゃ文楽の口説き文句にゃ敵うめー。

若さを保つのには、異性に興味をもって胸をときめかせるのが良いのだなどと講釈していた人がいました。
そんなこと言われたって、だれかれ構わずってわけにはいきません。それなりに美しくなくては、そんな気は起きません。

気前よくポンと金をだす。なんてのもあるから、ポンはいい。
ポンユウ(ぽんよう)っていうのもトモが重なる(朋トモ、友トモ)から、ポンていうのはいいのです。あっ、それポン!なんてね。  
 なに、それは違うポンだってか?


井戸端会議ではなくてポスト端会議。
ハガキを投函しに行ったところ、ポストのそばの植え込みの枠に腰掛けて、手押し車によりかかりながら一休みがてらなのか
三人のおばあちゃまが談笑しておりました。家族の話しらしいのですが和やかで微笑ましかったです。


蓼食う虫も・・・とかいいますが、世にエディブルフラワーというのは多い。
八重桜・菊・スミレ・菜の花・ボリジ・ナスタチューム・・・etc.
今日はオクラの花を見つけたので、サラダにしてもらって食しました。花の段階でもうオクラの口サワリであることは、驚きです。

「かみありづき」出雲は、神様が集まって会議中なのだとか。
神様がみんな出雲に行ってしまうから、10月は出雲以外は神無月ということになります。
いずものかみさまお〜いさね・・・

TVでモミジとカエデはどう違うなんてのをやってましたが、紅葉するのは何でもモミジという。
カエデも紅葉するのでモミジと呼ばれる、なんてことを言ってましたが、古文(国語乙)をやった人は、もう少し詳しいはず。
カエデは即ちカエルデ(蛙手)。手のひらのような形。

むかし農家では、たいてい庭先に箒草を植えていた。
秋になって葉を落とし、茎と枝だけになったのを抜き取ると、箒として使うのに具合がよかった。
箒草の実は、知る人ぞ知る珍味のトンブリで、プチプチした歯ざわりが何ともいえず良い。

私は心理学者ではありませんので詳しいことはわかりませんが、どうも願いや目標を達成するのに大切な働きをするは「潜在意識」であり、
そこがどのようにイメージしているかということが影響を及ぼすらしい。


風水・パワーストーン・お守り等々、ツキを得る為には神社参りを始めとしていろんな方法があります。
よく、「トイレを見るとその家のことがわかる。」と言われますが、
ご商売をされていたらもう、見る聞くなしにトイレのお掃除は一番に気をつけねばならないことです。


手詰まり感を覚えたら、それは今のやり方ではならぬというサインが来ているということ。
普段つかっている言葉は、「有難うございます。」という感謝の心に通じていなくて、ついつい不平不満愚痴が多くなっているということはないだろうか?

言葉というものは不思議なもので、口にしたことを良いことも悪いこともその通りに具現してしまう力を持っているらしい。
行動も同様で、やり方を変えないと「今のままでは何もかわりませんよ。」ということに違いない。思いを変えてみて、良いと思ったらそうする方がよい。

簡単にできるのなら、そうしたいと思っても、刷り込まれてしまった習慣はなかなか軌道修正がきかない。
思い方を入れ替えてしまうということが必要なのかもしれませんが、これが難しい。やってみなければ、いつまでたっても変わりませんが・・・

日本には昔から正月という行事ほか多種の行事があります。
思うに、この1年の諸々をリセットして、「すべてをチャラにしたところから始めても宜しい。」という許しの行事なのではないだろうか。
但し、その代わりに精進潔斎して身近な先祖や神様に感謝しなさい!ということにはなる。

聞くということには、いろんな表現があります。
聞き上手、聞き耳をたてる、聞く耳を持たない(或いは持つ)等々。
それは聞いたことがある。それを知っている。それがわかっている。それをそのようにできる。
聞いたことでも、それには段階がいろいろある。

聞き取る力、「指導され力」を育てないと、人だって神様だって同じことで、この人には「なにを言ってもしょうがないから、
自分で気づくようになるまで放っておこう。」となっているに違いない。


視力がいいというのは、ものの形を良く見分けられるということであろうが、lookseeに分けられるように、
何となく目には映っていても意識にまでは届いていないというのでは、見る目が有るとか無いとか以前の問題。
見れども見えず状態では、判断力に大きな差が出てくる。


見えたもの聞こえたものを、どう判断するか。
素直な心で、拘りから離れて深層にある意識に沈めてみると、すぐにではなくとも答えが返ってくるように思います。
目も耳も、そこから先の働きのために役立たせることが大切だと思うのです。

「初めに言葉ありき」と言われます。言葉が総てを決めるのかも知れません。
物の名前を決め、動きや状態などを表す言葉を決めなくては、思考ということが成り立たないし、
思いや考えやその蓄積を伝えることもできないから・・・


「ことほぐ」というのは、目出度いことを口に出して言うということだと思いますが、聞いているとノリトもお経も説教も、
その言祝ぐというところから出ているのではなかろうかと思えるのです。
口に出した言葉は、それを具現化せずには置かないと言う力があるようです。

悪意に満ちた言葉はエネルギーが強いのか、すぐ形に表れるようですが、
善も悪も含め口から出された言葉を実現化してしまうという潜在意識の世界の持つ力は、自分と他人の区別がつかないそうですから、
気をつけなければなりません。

 

チェコの焼き菓子に、ペルニークというのがあります。
クリスマスや新年、誕生日や結婚式などのお目出度い席に供されるものであり、プレゼントにも喜ばれるものなのだそうです。
大切な人に思いを込めてペルニークを贈るというのが、チェコの美しい習慣らしい。


 

出社すると机の上に柿の実が置かれていました。
「おー、綺麗な色の柿だけどどうしたの?」と尋ねると、庭になっているのを枝を折ってもって来たのだと、社員の一人が答えました。
その場に居た皆が、嬉しそうににこにこしていました。

子供の頃、模型をつくるときに「のりしろ」というのがあった。このことを書いた人の話が面白かった。
曰く、子供のつくるものだから、「糊をしろ!」と命令語で書いてあるのだと信じて、長じるまで疑わなかったのだという。


「恐竜は、さぞ痛かったでしょうね。」と言うので、何事かと思って問うたところ、
恐竜が絶滅したのは隕石が衝突したことが原因だという説のことだとわかったと話す人がいておもしろかった。
確かに、石がぶつかったら痛いに違いないけど。

源平の戦いが終わって、落人伝説ができたといいます。
そこがそうなのかどうか調べたことはありませんが、山登りで各地を歩くと、「よくこんな厳しいところに人が住んでいるね。」
と思うような場所を目にすることがあります。


蕎麦畑があるところは、厳しい土地ということが前振りなんだけど、ソバというのは昼と夜の温度差が大きくないと結実しないと言われています。
すなわち気象上も厳しい土地で作られたということになる。


落人部落を作った平氏と較べれば、優雅といってもよいかも知れないのが今川氏。
織田との桶狭間の合戦に破れたあとのことは余り知られていませんが、私の住む近くに「今川」という地名があります。
4丁目まであるくらいの広い地域です。徳川に庇護された今川氏の末裔が住んだという。


目出たい花として愛でられる福寿草は、見た目よりかなり広範囲に根が張る植物なので、土地の広さが大事なのです。
一般的にいって植物は、木も草も枝や葉の広がる広さの分だけ根が張るといい、桜などは1本につき300坪の土地が必要だと聞き及びます。

歌にある「埴生の宿」というのは、粗末な家というくらいに思っていました。まあせいぜいが埴輪をつくる土というのが想像の限度でした。
ところが、埴生というのは黄土と書いてハニュウと読んでいたらしい。

子は、親を選べないとよく言われます。本当なのだろうか?そんなことを言ったら、親だって子を選べないことは同様なのに・・・
教育書だか進歩的知識人だか知らないけれど、彼らが変に訳知り顔で言っているが、親のせいにするのは、誰のためにもなるまいに。

子は親を選べないと、わかったようなことを言う教育者がいますが、そんなことはありません。
霊的なことがわかる人は「子は魂の磨きのために、その親をわざわざ選んで今生に生まれてくるのだ。」といいます。
実際のところ親は産れてくる前の子にお願いされているのです。


昔は、寺小屋というところで「素読」というのをやった。
「幼い子が漢字ばっかりの難しい書物を読んでどうなるんだ。」な〜んて心配は無用でして、その勉強をした子が立派に育ったのであります。
子供ってのは舐めたらいけません。鉄は熱いうちに打つのがよいのです。


「ウロ」。烏と鷺のお話し。\n姫路の白鷺城と並び、石川数正築城になる松本城は国宝級。(他は、彦根と犬山だったっけか?)
珍しい築城の松本(深志)城は別名「烏城」と呼ばれるが、「ウジョウ」と呼ばれる城はほかにもあるらしい。

将棋は指すといいますが、碁は、烏鷺(ウロ)を戦わすといいます。
日本語の決まりごとみたいなものですが、
TVなどでよく「得点をとる。」というのを聞くと、いたく気になる。
得点する、とか点をとる(あるいは入れる)というのが普通なんじゃなかろうか。

七草粥をやる家庭は殆どなくなってしまったようだが、昔はどこでも夜になると七草を刻んで、7日の朝の粥にいれる用意をしたものです。
七草なずな 唐土の鳥が 日本の国に 渡らぬさきに あわせてバタバタ と唱えながら・・・(バタバタのところは俎板に包丁が当たる音)

「農業政策」には田圃の保水能力、食料安全保障に関連する自給率、等々数え上げればきりがないほど出てくるが、
やっぱり普段からそういう問題点を俎上にあげて人目にさらしておくべきで、判断すべきことから目を逸らさせるようなことは避けるべきだと思う。


猫踏んじゃったではありませぬ。「赤猫」は、火事又はツケ火の隠語です。市中引き回しのうえ火焙りという極刑になりました。
お七だかお八(百屋)だかもそうなりました。\nでも、野焼きというのは大事です。焼き畑農業ではありませんが、土手焼きはよくみかけます。

富士の裾野の演習場の山焼きの後はワラビが沢山出るというので、春は大勢の人が集まります。
日曜日は、演習が休みです。ワラビは出ても、ジラードは出ません。(ジラードって知っているかな?)

余裕のないときは、枝葉じゃなくて大同につく勇気をお互いが持たないと、膠着状態では誰の幸せも得られないと思うのですが・・・
全ての人に良いことも、全ての人に悪いこともないのだから、個別の例は個別に取り上げることにして進めることが必要なときがあるのだと思う。

人の生活状態や、いわゆる運と呼ばれているものの殆どは、自分が選んだものであるということに気づく人は少ない。
事に臨んで自分で何事かを選択し自ら動いた結果であれば大抵悪くはないし、仮に望んだ通りでなかったとしても、
自分でその結果に納得できることが多い。

元気を出すしかないこととか、人智では叶わぬことを願うときには、神様に真剣にお願いする。ばかばかしいなどと思わずやってみては・・・。
口に出すことで、何をしたいのか明確になるだけでも意味があります。

日本では花とだけ言ったとき、それは桜を指します。だから、同じバラ科であって春一番に咲く梅であったとしても、梅の花と言わねばならない。

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